「ジャイアントキリング」についての歴史雑感~今年のWBCを観て思い至ったこと

 昨年と今年2023年のスポーツ界では、相手チームよりパワーや技術に劣り格下とされているチームが、強力なチームを撃破する「番狂わせ」、いわゆる『ジャイアントキリング(英訳:Giant-killingまたは Upset)』が世界中を賑わせました。
 昨年カタールで開催された「2022 FIFAワールドカップ」での日本代表侍ジャパンの活躍は目覚ましかったのは記憶に新しく、グループステージ(Eグループ)でサッカーの伝統強豪国であるスペインとドイツの両国を撃破し、グループ首位で決勝ラウンドの進出を決めたのは、正真正銘の番狂わせ、ジャイアントキリングでした。
 今年3月に開催された「2023ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」で、名将・栗山英樹監督率いる日本野球の精鋭・侍ジャパンが、第1・準々決勝の両ラウンドを勝ち抜き、野球の強豪国・メキシコ(準決勝)、同世界最強国・アメリカ合衆国(決勝)をも激闘の末に降し、14年(3大会)ぶりに3度目の優勝に輝いたことは日本中が湧きたちました。
 このWBCでの侍ジャパンは、最早世界一の球界プレイヤーとなった二刀流・大谷翔平選手、世界の名投手・ダルビッシュ有投手、令和の怪物・佐々木朗希投手、日本球界屈指の名投手・山本由伸投手、令和初の三冠王・村上宗隆選手といった日本人野球界の精鋭たちが集結したドリームチームであったことは間違いありませんが、本大会前、米国専門家の間の優勝予想では、最有力候補はアメリカ合衆国かキューバであり、侍ジャパンは3位というのが有力視されていた説がありました。
 その大会前下馬評を見事に覆し、大会では侍ジャパンは完全なるジャイアントキリングによって、頂上決戦でアメリカ合衆国を破り世界王者になったことには、筆者を含め多くの日本人が大狂喜しました。
 昨年と今年は、サッカーと野球という双璧球技で、世界の強豪国を相手にしたジャイアントキリングが主題となったと言っても過言ではないのですが、この事については、スポーツ界のみに限ったものでなく、古今東西のあらゆる分野でも多々の事例があります。否、寧ろジャイアントキリングを達成した人物や勢力によって東洋・西洋国家、即ち地球の歴史が成り立っていると言っても過言ではないでしょう。
 特に中国史に関しては、その傾向が濃厚であり、史上初大陸統一帝国(皇帝という地位)を確立した秦帝国とその始皇帝(旧名:秦王政、嬴政/えいせい)は、元々は中国大陸最西端の辺境王国から身を興して巨大王朝を創設した勢力であり、その秦帝国を滅ぼし、強敵・楚の覇王・項羽を撃破して漢帝国(前漢帝国)を樹立した劉邦(漢高祖)は、一庶民身分から一代で皇帝になるという、世界史上初にして最大のジャイアントキリングを達成した人物であります。
 後に『易姓革命』と呼称される歴代王朝の交代劇は、統治能力や求心力を喪失した帝国/王朝に対して民衆や反乱分子らは蜂起し、旧王朝が斃れた場合は、反乱軍の頭目的存在が新たな王朝を樹立して、新たな大陸の統治者となっていくという中国大陸での政治現象を顕しています。 
 意地悪の言い方をすれば、易姓革命は新帝国を築き上げた勢力側の反乱・下剋上を正当化するための大義名分でもあったのですが、その最たる易姓革命=大義名分に模られたジャイアントキリングを成し遂げた好例が、上掲の一平民(非軍閥出身者)から漢帝国の初代皇帝となった劉邦であり、14世紀中盤に、劉邦と同じく平民身分から明帝国を築き上げた朱元璋たちであります。

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 前記のように、英語ではジャイアントキリング、老荘思想や中国古代兵法書の六韜三略などが唱える「柔よく剛を制す」といった言葉が当てはまりますが、日本風に言えば「番狂わせ」「大物食い」、そして前出の「下剋上」であり、我が国でそれが行われるようになったのは、やはり12世紀後半から13世紀前半にかけて日本史の表舞台に台頭した『武士たち=開拓武装集団』であります。
 それまで日本国内の唯一無二の統治機関であった京都朝廷(上皇院も含む)の守衛的(悪く言えば番犬・奴婢)存在に過ぎなかった卑賤の武士たちが、天皇・皇子・上皇・公卿などの朝廷や院内における複雑な内訌に乗じる形で、勢力を伸張させてゆきます。その双璧となったのが、西日本に勢力基盤を持つ「伊勢平氏」と坂東地方を拠点としている「河内源氏」でした。
 伊勢平氏から身を興した英傑・平清盛は、武力と西日本の海上交通権(日宋貿易)を背景して平氏勢力を著しく急成長させ、宿敵であった源義朝ら河内源氏の勢力を一掃し、後白河法皇にも取り入って、京都朝廷内での存在感も強大なものとしてゆきました。結果、清盛自身は、最終的に太政大臣までの極官まで昇爵、清盛近親者たちも顕官や豊穣な荘園を独占するほどの隆盛を伊勢平氏は迎えるようになります。
 平清盛の継室・平時子の義弟である平時忠が、『平家に非ずんば、人に非ず』というあまりにも有名な発言をしたのは、この平氏隆盛期の頃ですが、開拓農民身分と同等、もしくはその頭目的存在に過ぎなかった卑賤の平清盛ら伊勢平氏が、京都朝廷の内紛に付け込み、朝廷内で強大な勢力を構築したという功績は、日本初の革命的な下剋上、ジャイアントキリングであったと言えるでしょう。
 武家初の公卿昇進と京都朝廷の壟断という革命的な下剋上を成功させ隆盛を極めた伊勢平氏でしたが、その急激な専断ぶりは朝廷(厳密に言えば後白河法皇)を頂点とする畿内の大社寺(比叡山延暦寺や奈良の興福寺などの南都北嶺)ら伝統権力による強い反感を買い、平氏一族はそれらの勢力と政治的対立を深めることになります。
 伝統権力との対立により、勢力伸長が頭打ちとなった平清盛と伊勢平氏を更に苦境に追い込むことになったのが、かつての宿敵であり清盛が撃破した河内源氏勢力の挙兵であります。信濃源氏である木曾義仲、甲斐源氏の嫡流である武田氏、そして河内源氏の嫡流であり平清盛の宿敵であった源義朝の嫡男・源頼朝たちが、東国各地で蜂起したことであります。
 源氏一門の中でも、伊豆国で流人生活を送っていた無一文であった源頼朝が、伊豆・南関東に割拠する有力東国武士団の後援を受けて挙兵し、僅か数ヶ月で相模国鎌倉を本拠地とする独立武家政権を築き上げたことは有名であります。この反平氏勢力(京都朝廷)に過ぎなかった坂東地方の田舎テロリスト集団(源頼朝とそれを戴く東国武士団)が、平清盛亡き後の伊勢平氏政権を滅ぼし、日本史上初の本格的な武家政権の嚆矢となる鎌倉幕府を築くことになる下剋上、ジャイアントキリングを達成することになります。
 平清盛を頂点とする伊勢平氏は、新興勢力にして卑賤であった武士の身分から伝統権力の筆頭である京都朝廷社会に食い入って、その権力を壟断するほど勢いを見せましたが、清盛らがやったことは、飽くまでも武士の身分から伝統権力である朝廷に属する公卿公家に転身し、朝廷権力を掌握したという事であり、武家の棟梁たる清盛を総帥とする伊勢平氏一門が、独自の平氏武家政権を創設した、という訳ではありませんでした。
 当初、伝統権力の最高権力者であった後白河法皇に上手く取り入ることによって、平清盛は、朝廷の番人身分に過ぎない武士でありなら京都朝廷の中枢部に入り込むことができ、伊勢平氏の隆盛期を築くことができましたが、反面、清盛ら平氏一門は伝統権力で昇進を重ねることによって、朝廷をはじめとする大社寺ら権力者に取り込まれてしまい、その勢力間との対立などで翻弄されて疲弊していまい、結果的に平氏減退の大きな一因となっています。
 また地方各地の田舎に割拠する武士団(在地領主たち)らにとって、かつて同じ武家仲間であったはずの伊勢平氏が、自分たちの存在を無視し、京都朝廷のみに取り入る姿は、平氏一族に対する失望そのものであり、この悪感情が起因となり平氏離反、平氏軍の敗北者で流人となっていた源頼朝(河内源氏)の挙兵の最大機動力になることになります。
 伊勢平氏が伝統権力の棟梁である京都朝廷に取り入るほどの下剋上・番狂わせ・ジャイアントキリングを達成し、当時日本国内最大の殷賑地である京都(畿内)と西日本を掌握しながらも、前掲の院や大社寺との対立や源氏勢力の復活などが原因により、平氏政権は非常に流動的であり、平清盛が極位の太政大臣に就任した1167年(仁安2年)から僅か18年後の1185年(寿永4年)には、隆盛を誇った伊勢平氏(清盛系譜)は、壇ノ浦の戦いで敗亡することになります。
 下剋上を起こすことによって卑賤身分から中央政権を掌握するほど栄華隆盛を誇った大物の伊勢平氏が、今度はやられる側の立場に回ってしまったのですが、そのジャイアントキリングを達成したのが、先程から何度か触れているように、源氏の棟梁・源頼朝、坂東地方に割拠する東国武士団であります。
 先述のように、伊勢平氏は元々、比較的に富裕の地であった畿内~西日本を活動拠点としていたので、経済的利点を有していましたが、源頼朝とその軍事力の中核を担う東国武士団の拠点である坂東地方は、経済的にも文化的にも後進地帯のド田舎でした。いわゆる経済的に立ち遅れいる田舎者の集まりの武士(武装開拓農民)たちが、源頼朝の下に結束し、当時の首都圏(畿内)に討ち入って、平氏政権を倒したのです。
 田舎のど真ん中から起ち、平氏政権を打ち倒して、鎌倉武家政権を創設し、遂には1221年(承久3年)には、京都朝廷の主宰者にして日本国内の最高権力者である後鳥羽上皇とその官軍を承久の乱で打ち破り、朝廷を掌握し、名実共に600年以上も永続する全国武家政権を創始した東国武士団(鎌倉御家人たち)こそ、平清盛と伊勢平氏を一回りも二回りも上回るほどのジャイアントキリングをやってのけた日本史上最大の存在と言えるでしょう。
 日本有史(大和朝廷勃興)以来、天皇・皇子・公卿という高貴な種族以外の階級、即ち朝廷にとって最下級層に過ぎなかった「武士(しかも当時ド田舎である関東地方の武装農場主)」たちが、13世紀に朝廷を傘下的に立場に置くこと事態が、天地驚愕の出来事であります。現在の一地方の反社会的勢力が、日本政府を乗っ取り、日本国家を運営していくようなファンタジー的なことが起こったようなものであります。
ただ(京都朝廷にとって)反社会的勢力のような存在である武士団の頭目たちが、源頼朝と北条義時、その次世代である北条泰時らが、政治組織を創設あるいは運営していくことについて天才的であったことが、新しい武士という時代と全国武士政権を永続させることになります。
 北条泰時(鎌倉幕府3代執権)とその孫に当たる北条時頼(同5代執権)が、元祖全国武家政権の鎌倉幕府の組織造りに貢献し、武家政権=北条執権体制が続くことになるのですが、時代を経るごとにその組織も弱体化・形骸化してゆくようになります。
鎌倉政権内では幕府の事実上の統帥たるべき執権(得宗家)が傀儡化となり、代わって北条得宗家の家宰であった「内管領家(平頼綱や長崎円喜など)」が実権を掌握し、豊かな荘園や領地を北条一族や内管領家で独占するなど専横が目立つようになり、幕府に属する武士団=御家人たちは、北条執権体制に不満を抱くようになっていきます。
 北条義時と北条泰時が執権体制を確立して以降、本来、幕府に属する御家人たちの領地を偏りなく公平に安堵(生活保障)することを第一主義として御家人たちの支持を得ていた幕府でしたが、時代が経つにつれ、鎌倉政権内部が頽廃。結局、武家世論を形成する御家人たちの離反を招き、鎌倉幕府も終焉を迎えることになります。

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 1333年(元弘3年)、幕府に敵愾心を抱き王政復古を望む後醍醐天皇とそれに加担した幕府傘下の北関東の有力御家人・足利高氏(後の尊氏)と新田義貞によって、鎌倉幕府は滅亡することになります。
『歴史は繰り返される』あるいは『歴史は繰り返されないが、韻を踏む』という名言がありますが、かつて京都朝廷(官職)や各地の荘園を独占し、専断の限りを尽くした平氏政権に対して下剋上を敢行した源頼朝を始祖とする鎌倉幕府(北条執権体制)が、今度はその鎌倉幕府が傘下武士であった足利尊氏のジャイアントキリングによって滅ぼされたのであります。

 平清盛と伊勢平氏、14世紀初期の北条執権体制こと鎌倉幕府。武家政権の先駆け的存在となり、日本中世という新時代の構築者となった両者が最期に辿った末路の原因が似ていると筆者は思っているのですが、それが周囲を無視するが如く、地位や利益を自身や近親者らで独占するという専横の限りを尽くした挙句、求心力や人々の支持、大袈裟に言えば世論が作り出す「時勢の利」を失い破滅している点であります。
 この一点は、17世紀初期に徳川家康が創設した江戸武家政権が19世紀中後半の江戸幕末の混沌期になると、幕府(15代将軍・徳川慶喜)は、列強諸国(特にフランス)との交易権、即ち交易で得られる経済力と最新兵器などの西洋軍事力を独占することにより、当時台頭著しい薩摩藩と長州藩など西国雄藩を抑えつけようと画策しましたが、これが薩長ら雄藩の怒りと怖れを助長させる結果となり、江戸政権倒幕に繋がる一因となっていることは確かであります。
 因みに、江戸幕府の終焉については、上記の原因以外に朝幕関係や複雑極まりない開国攘夷論もありますが、末期症状である幕府が諸外国から得られる利や武力を独占しようとしたというのも、265年続いた江戸武家政権の致命傷となったのも事実であります。

『日本の歴史は、諸事独占するような独裁者を受け入れることを極度に嫌う体質である』

という意味合いの記述されているのが、作家の司馬遼太郎先生(著書「この国のかたち」)です。
確かに、鑑みてみると、12世紀後半の平清盛は、京都朝廷内の政権的内訌や宿敵である源氏勢力の闘争を勝ち抜くことにより、武士階級としては初めて朝廷内で極位極冠と数多の荘園、名誉と利益を手に入れる快挙を成し遂げましたが、結局、名誉と利益を清盛自身とその一族近親者のみで独占したことで、上位では旧来の公卿や社寺勢力、下位では武家勢力の反感を買うことによって、政権の求心力を失い、西日本の海で滅んでしまう羽目になっています。
 その「驕れる平家久しからず」の伊勢平氏を滅ぼした東国武士団、その末裔たる14世紀中盤の鎌倉幕府も、の武家政権開闢(約150年前。即ち源頼朝や北条義時在世時)の大原則であった「不公平なく御家人の領地安堵」を忘れ、北条一族で富裕な土地や守護職を独占する専横が強くなったため、有力御家人であった足利尊氏、当時台頭していた新興武士団(悪党)である楠木正成などの怒りと反感を買い、滅ぼされる羽目に陥っています。

 鎌倉史がご専門の東京大学史料編纂所教授・本郷和人先生も仰っておられますが、日本の歴史は不思議なもので、空前絶後な権力と権益を掌握し国土国民を支配する「絶対的支配者・独裁者」というのは、日本史において誕生しないのであります。この一事は、唯一無二の権力と権威を有して全国土を支配する中国大陸歴代王朝の皇帝や西洋王家における絶対王政の支配構造とは全く異なります。
 前掲の平清盛や鎌倉幕府も武家ですから、国内において唯一無二の強大な軍事力は持っているのですが、だからと言って国家元首である院(法皇)や天皇となり、武家以外の権門勢力(公家と寺社)をも完全支配するということは絶対にすることなく、表向きは天皇・朝廷・寺社を立てつつ、飽くまでも武家自身は朝廷の子分格として振舞い続けています。
 中国王朝では軍事力や統治力のない皇帝を葬り去り、代わって絶対権力者になる(即ち封禅・禅譲。あるいは放伐)ということが断行され、新王朝が樹立されましたが、日本史では軍閥組織が天皇家を屠り、日本国土や人民を支配するということは皆無であります。
 平清盛も後白河法皇を擁立し京都朝廷の廷臣の1人として振舞い、鎌倉幕府の事実上の支配者であった北条執権家(得宗家)も、征夷大将軍(鎌倉殿)には絶対にならず、執権自身は相模守のみの官職に甘んじ、他の御家人衆と同格として振舞い、周囲との協和を重んじていました。尤も先述のように、晩年の清盛も鎌倉幕府も驕慢的になり、周囲の反感を買って没落していますが。
 戦国期の風雲児である織田信長は晩年になるに連れ、周囲に対して驕慢的態度になった挙句、天皇家を消し去り、自らは唯一無二の日本国大王になる政治体制を構想していたという説がありますが、その真贋は別として、他の武家勢力に対しては勿論、朝廷権力や宗教勢力に対しても強力な抑圧を加えていて、周囲の反感を買っていたことが、信長の横死と覇者・織田氏の没落の一因となっています。

 現代日本でも同様ですが、古い時代の日本でも1人の人間あるいは限定的な集団が専断・専横・独裁という権力を掌握することを忌避、根本的に受け付けない原理があり、平清盛や織田信長のように当世の英傑ながらも、諸事驕慢的になり、少しでも越権行為をしようとすると、忽ち周囲から袋叩きの憂き目に遭ってしまうのです。
 『持ちつつ持たれる』という皆様よくご存知の言葉がありますが、日本の歴史(権力史や闘争史)を見ていると、この言葉が本当に至言だと思えます。勿論、協和性の尊重・独裁の忌避は、日本のみに限ったことではなく、他国にも当てはまることなのですが、その中でも日本は顕著だと思います。隣国の中華人民共和国やロシアと比較すると、より顕著のように拙者は思えます。

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 今年3月、日本中を熱狂させてくれた栗山監督率いる侍ジャパンのWBC での大活躍、そして、『憧れるのを止めて』(大谷翔平選手の名言でお馴染み)、世界野球強豪国を撃破するという俊逸なジャイアントキリングを拝見して、歴史の中の下剋上、日本史の権力体制等々を筆者なりに思い起し、雑感を書かせて頂いた次第でございます。

(寄稿)鶏肋太郎

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