織田信長の悪名高い「比叡山焼き討ち」が後に何をもたらしたか

織田信長(おだ-のぶなが)の人物像といえば、残忍で冷徹などというイメージが、一般的なのではないだろうか。
残忍で冷徹な信長の逸話の中で、比叡山延暦寺の焼き討ちがあげられるが、この行為は現在の信長のイメージを決定付けたといっても過言ではない。
比叡山延暦寺の焼き討ちが起こった経緯から、この時代の寺社の本質を探り、なぜ信長が焼き討ちを決行したのかを考察したい。

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三好三人衆との野田城・福島城の戦い

永禄11年(1568年)信長上洛を拒んだために京都を追われた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は京都の奪還を図り、畿内の織田軍が手薄なのを狙って、野田城・福島城(大阪市)を築城し、兵を挙げた。
まもなく三人衆軍は、信長がいない間に古橋城を落城させている。
三人衆の動きを聞いた信長は岐阜城を出立、天王寺に布陣し、元亀元年(1570年)8月、野田城・福島城の戦いが始まる。
野田城・福島城は、四方を海や川で囲まれた堅城で信長も、まずは無理を避け誘降策を採ったようである。
このような中で、これまで中立を保っていた石山本願寺の門主・本願寺顕如(ほんがんじ-けんにょ)が近江の一向衆門徒に一通の檄文を送る。
この時点で、顕如の動きを知らないはずの摂津・野田城、摂津・福島城の前線では、織田軍が浦江城、畠中城を落城させるなど、次第に攻防が激しくなる。
織田軍は、浦江城、畠中城を攻略の拠点としながら鉄砲を使った攻城戦を繰り広げた。
三人衆軍は、たまらず信長に和睦を申し込み、受け入れられなかったが、顕如軍の参戦で戦況は一変した。
それ以前も信長は、本願寺側に一方的な明け渡しを要求していた経緯があり、危機感を感じての参戦であったと思われる。
顕如軍の参戦で、勢いづいた三人衆軍だったが、織田軍が塞き止めた堤防を破り野田城・福島城一帯が海水に浸り、戦況は膠着する。
その頃顕如、三人衆と連携していたと思われる、浅井長政(あさい-ながまさ)朝倉義景(あさくら-よしかげ)率いる浅井・朝倉連合軍が京都へ向かい進軍を開始。
浅井・朝倉軍が動くと、織田家家臣、近江・宇佐山城主の森可成が素早く備え、京都への進軍を阻止すべく奮闘するが、そこへ同じく顕如と連携していた、比叡山延暦寺(ひえいざん-えんりゃくじ)の僧兵も加わり、可成と援軍を率い駆けつけた弟・織田信治が討ち取られる。
その報を受けた信長は、浅井・朝倉軍を優先する形をとり京都へと戻り、浅井・朝倉軍は一時比叡山に後退をする。
こうして、摂津で起こった野田城・福島城での攻防戦は終了した。

比叡山焼き討ちに繋がった志賀の陣

浅井・朝倉軍は勢いよく京都に向かったが、織田軍の動きが迅速だったため、比叡山への後退を余儀なくされ、元亀元年(1570年)9月、志賀の陣が始まる。
織田軍の、予想を上回る素早さに比叡山に逃げ込んだという方が良いであろう。
京都を出立した織田軍は、坂本で比叡山を包囲し、延暦寺側との交渉に入る。
信長は「織田につくか、中立を保て」と通告するが返事はなく、これより3ヶ月に及ぶにらみ合いが始まることになる。
織田軍が、比叡山でくぎ付けにされるのを好機と捉えた六角義賢は、近江の一向衆と挙兵したり、摂津の三人衆は京都を虎視眈々と窺う動きを見せていたが、六角は丹羽長秀、三人衆は和田惟政がなんとか抑えている。
その中でも、信長を苦しめたのが、伊勢長島で顕如の檄を受けた一向衆の蜂起であった。
一向衆の勢力は、加担した小豪族も合わせると数万に及び、長島城を落城させると、桑名城の滝川一益を敗走させ、小木江城主で弟・織田信興も討ち取る。
この一向衆の蜂起は、長島一向一揆(ながしま-いっこういっき)と呼ばれ、これを含め三度にも及び、泥沼の様相を呈する。
このような状況下で、手も足も出なくなった信長は、朝廷や足利義昭の仲介で和睦を決断し、志賀の陣は終了した。

比叡山延暦寺の焼き討ち

信長と延暦寺の関係は、以前から良好とは言えなかったようだ。
きっかけとして、信長が延暦寺の寺領を横領したという事実があり今回、浅井・朝倉軍に加担したことで対立は決定的となった。
ただでさえ裏切り者の長政(信長から見て)をかくまうとなれば、延暦寺は一つの軍事拠点と見なされても仕方がないところであろう。
元亀2年(1571年)9月、織田軍は夜中のうち、比叡山の麓に3万の兵を配置し、早朝に織田軍による比叡山焼き討ち(ひえいざん-やきうち)が始まった。
明智光秀(あけち-みつひで)など、織田家家臣の中には、この攻撃に際して信長を諫言したといわれるが特に光秀は、この焼き討ちの一番の功労者として、坂本に築城を許されている程であるため、諫言のほどはともかく、本能寺の変の遠因となったとは考えにくい。
織田軍はこの焼き討ちで、高僧や女子供にいたるまで、容赦なく首をはねたといわれる。
信長は焼き討ち後、延暦寺の監視のため坂本に光秀を置いた。
一方、延暦寺側で逃げ延びた者は、武田信玄に庇護を求め、延暦寺復興に向け動き始めるが、信玄は病死し実現には至らず、延暦寺はしばらく荒廃の時代に入った。

一大勢力だったこの時代の寺社

現代の神社仏閣といえば平和なイメージしかないが、この時代までの寺社は、現代の寺社の性格は持っていなかった。
大和の興福寺や延暦寺などの大寺院は、領地や兵力、財力も兼ね備えた一大勢力で、寺社勢力(じしゃせいりょく)と呼ばれるが、まさに勢力そのものであり、室町時代までは、将軍ですら容易に手を出せなかったのだ。
信長は、寺社の武装解除と既得権益の打破をし、風通しの良い、新しい社会を目指した。
見方によっては、自分に従わない者を退けただけということもいえるが、結果的に宗教の名の元に権威を振りかざす寺社を、徹底的に打破をし政教分離を実現したといえる。
現代の人々は、信長を世界でも稀に見る早さで政教分離を成し遂げた人物だと評価する声もある。(信長からすれば、はからずもだったかもしれないが)
では、信長は本当に虐殺者だったのかといわれると、島原の乱を見るように、比叡山焼き討ちを上回るような虐殺も後に起こっており、これも意見が分かれるところである。

いずれにせよ日本の宗教は、信長亡き後も豊臣政権が刀狩りを行い、江戸時代以降は人々が集い、健康や家内安全を祈願する平和な姿に変わっていった。

(寄稿)浅原

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