はじめに
豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)は、尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされ、当初、今川家に仕えた。後に織田信長に仕官し、織田家では小者から重臣へと出世していった。信長が本能寺で明智光秀に討たれると、山崎の戦いで光秀を破り、織田家内部の勢力争いにも勝利して、信長の後継の地位を確立した。秀吉は全国統一を成し遂げるにあたり、信長の権力基盤や政策を引き継ぎながらも、秀吉独自の政策も展開した。城郭に関する政策もその一つである。
秀吉が築城した城郭と言えば、一夜城の伝承を有する墨俣一夜城・石垣山城、宏大で豪華絢爛な大坂城や聚楽第などが知られている。大坂城や聚楽第などの秀吉が築城した城郭は、日本城郭史上、中世城郭から近世城郭への過度期の城郭として位置付けられ、「織豊系城郭」と称せられている。「織豊系城郭」は、これまでの土塁と堀からなる中世城郭とは異なり、高石垣、天守などの礎石建物、瓦の使用を特徴とし、織田信長が築城した安土城を画期とする。
秀吉は、信長の城郭政策を引き継ぎながらも独自に発展させていった。例えば、金箔瓦の使用について、信長は自身と息子の居城にしか認めなかったを、秀吉は一門・一族の大名に加え、豊臣政権を支える大名にも使用許可を与えている。また、新規築城や修築の許認可、破城についても、制圧した地域の権力構造や、秀吉と諸大名との関係などを信長以上に考慮しておこなっている。
そこで、本稿ではまず、秀吉が築城した城郭の特徴や築城背景などを整理する。その上で、秀吉が築城した城郭や、城郭に関する政策が、全国統一事業や権力等の強化にどのような影響を与えたのか、などについて明らかにしていく。
織田信長の家臣時代の城郭
墨俣城
墨俣城は、1566(永禄9)年、秀吉が木下藤吉郎と称して織田家の下級家臣であったときに、織田信長の美濃攻めに際して、わずかな期間で築いたと伝えられているが、不明なことが多い。『信長公記』には1561(永禄4)年に、信長が美濃の斎藤氏を攻略し「州俣要害」を改修して在陣したことが記されており、この改修は、木下藤吉郎が短期間でおこなったという説が伝えられている。
1954 (昭和29)年に秀吉の家臣であった前野家の子孫宅で発見された前野家古文書の『武功夜話』には築城の経緯が次のように記されている1)。すなわち、信長の命により、佐久間信盛や柴田勝家が築城に挑むが失敗したので、藤吉郎が自ら志願した。1562(永禄5)年6月中頃、美濃勢を伏兵奇計で撃退しながら、これまでとは異なる計画・方法でもって築城に成功したというものである。その計画とは、①構築物を大小の長屋十棟・櫓十棟・塀二千間・木柵五万本とする。
②必要な用材の収集はすべて東尾張地方でおこない、一千人の人夫で河川を利用して墨俣右岸に運ぶ。③用材は木曽川左岸地区で、設計図に基づいて組み立てておき、ただちに建設に着手できるようにする。④蜂須賀・稲田らの野武士、二・三千人で援護する。⑤6月に材料を収集、7月組み立て、8月に建設する。⑥作業手順は、初めに木柵を造り、これによって援護を受けながら家屋を建設する、というものであった。この計画は順調に進み、1566(永禄9)年9月1日、木曽川左岸の北方村で構築用材を筏に組み立て、4日に兵を小牧山に集め、翌5日早暁、木柵を立てて敵からの攻撃に備え、外堀を掘った土を城の土台に使用するなど築城を急いだ。斎藤竜興は8千の兵で妨げようとするが、信長自ら防戦と工場を監督したため、7、8日頃には櫓・堀・塀などが完成し、武具や兵糧もすべて備わったという。完成までわずか2、3日であり、信長は藤吉郎の功績を賞し、完成した墨俣城の城将に据えたという2)。
以上のことが『武功夜話』に記されているが、『武功夜話』そのものが偽書であるとの説も多くあり、秀吉の墨俣城築城についても疑念が持たれている3)。
第1表「豊臣秀吉関連城郭一覧」
城郭 築城年 備考(特色・背景など)
1)墨俣城 1556年 岐阜攻めの陣城(一夜城の伝承)
2)長浜城 1573 秀吉初めての居城城下町の整備
3)姫路城 1580 中国平定の本拠
4)山崎城 1582 「織豊系城郭」の特色
5)大坂城 1583 秀吉の権威・権力の象徴
6)聚楽第 1587 「天下人」秀吉の栄華の象徴
7)淀城 1589 側室茶々の居城
8)石垣山城 1590 小田原攻めの陣(城一夜城の伝承)
9)肥前名護屋城 1591 朝鮮出兵の本拠
10)伏見城 1592 隠居城から政務の拠点
長浜城
長浜城は、1575(天正3)年の浅井氏滅亡後に、羽柴秀吉が初めて城主となった城である。秀吉はこれまでの「今浜城」を改修して「長浜城」と改称するとともに、城下町の整備もおこなった。
長浜城の築城時期や経緯については不明な点が多い。『浅井三代記』によると、1511(永正8)年に上坂治部が築いたとしている。『江北記』では、1499(明応3)年に京極高清が上坂家信の助けを得て入城し、1501(文亀元)年に高清に対抗する京極材宗らにより攻められた、としている。
1575(天正3)年の浅井氏攻めで功があった秀吉は、近江半国を与えられると、浅井氏の本城の小谷城ではなく、今浜城を長浜城に改修・改称して江北支配の中心とした。小谷城下から人を移住させて、新たに城下町を建設し、そこでは町の年貢や諸役を免除するなどの政策を実施した。
織田信長没後の1582(天正10)年、清州会議の結果、長浜城には秀吉に代わり柴田勝豊(柴田勝家の甥で養子)が入城した。同年の冬、秀吉と柴田勝家の争いの中で、秀吉は長浜城を攻め、勝豊を降伏させた。そして賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼすと、1585(天正13)年に家臣の山内一豊に2万石を与えて城主とした。関ヶ原の戦い後は、徳川家康の家臣が城主を務めるが、1615(元和元)年に廃城となった。長浜城の建物や石垣の石のほとんどは、彦根城築城のために持ち去られた。1971(昭和46)年に実施された調査では、櫓跡の一部と考えられる石垣と、瓦や一石五輪塔などが検出されている。また、大手門が彦根城の天秤櫓門、台所門が長浜大通寺に移築されており、さらに彦根城山崎郭の三層櫓は、長浜城の天守であったとされている4)。
姫路城
姫路城は1609(慶長14)年に池田輝政によって築城されたが、それ以前から、現在天守がある「姫山」には城郭が築かれていた。「姫山」に初めて城を築いたのは、赤松貞範といわれており、1346(貞和2)年から3年間、ここを居城とした。1348(貞和4)年に貞範が庄山城を築いて移ると、その被官である小寺頼季が城を守り、一時期を除き代々小寺氏が城主を務めた。室町時代から戦国時代にかけて姫路城も多くの戦乱にみまわれた。戦国時代末期の1545(天文14)年に、小寺則職の家老黒田重隆が姫路城に入り、職隆、孝高(のちの黒田如水)と三代続く。1577(天正5)年、羽柴秀吉が中国地方平定のため播磨に入ると、孝高は秀吉の平定事業を大いに助けた。
1580(天正8)年に播磨平定戦が終わり、信長より播磨を与えられた秀吉は、翌年にかけて三重の天守をもつ城郭を築いた。浅野長政、黒田孝高を普請奉行とし、磯部政次郎直光(志摩国磯部在住)を大工棟梁として工事を進めたといわれている。城郭の様子は、1762(宝暦12)年に著された『播磨鑑』に「姫路ニ三重ノ天守ヲ建ツ」5)とある(平野 1909)。また、1631(寛永8)年に竹中重門(竹中半兵衛の子)が著した『豊鑑』には「石を畳みて山を包み、池を穿ちて水をたたへ、櫓どもあまた造りつづけ、家を組あげて高くそびやかし、門々のかまへきびしく、かはらのいらか軒をならべり」6)とある。これらの記述から、秀吉時代の姫路城は石垣や水堀で囲まれ、櫓など多くの瓦葺き建物が立ち並ぶ、相当の規模の城郭であることが推測できる7)
秀吉時代の姫路城の具体的な姿については、1964(昭和39)年に終了した天守解体修理のときの知見から推測することができる。解体修理の際、大天守石垣内部から石垣が発見されたが、現在の天守と方向が少しずれていた。また、礎石は現在の穴蔵の礎石より150~170㎝程低い位置から発見された。そして、小天守や渡櫓から発見された古い部材は、それ以前からあった建物の部材を再利用した痕跡が残り、秀吉時代の建物のものと考えられている。これらのことから、秀吉時代の天守は、丸岡城あるいは犬山城と同様、望楼型の小規模な天守であったと推測されている8)。
山崎城
山崎城は西国街道を見下ろす、天王山の山頂に位置する。その場所は、山陽道を摂津国から入京する際の抑えとなる要衝の地であった。諸資料によると、南北朝の動乱の中、1338(建武5)年6月に摂津守護赤松範資が築城したとされている。戦国時代には、三好氏・法華一揆・一向一揆などの諸勢力の間で争奪戦が繰り返された。1536(天文5)年に入京した細川晴元もこの城を重視し、1538(天文7)年3月、自ら督励に赴いて修築を行い(『親俊日記』)、翌年、三好長慶が反乱を起こしたときも、晴元は芥川と京都との中継地として利用している。
1582(天正10)年、本能寺の変の後、一度は明智光秀に占拠されたが、光秀が防衛ラインを勝龍寺城まで下げたため、中国平定戦から戻った秀吉は山崎城を攻略し、山崎の戦いで光秀を破った。勝利した秀吉は、山崎城を改修して1583(天正11)年6月に大坂城に移るまで居城とした。吉田兼見の日記(『兼見卿記』)の天正12年3月25日条に「今朝山崎之天主を壊チ取ランガ為、奉行罷リ越ス」9)とあり、山崎城には天守が建てられていたことがわかる。また、麓の宝積寺一帯に家臣団が集住していたと推定される郭が残る。1584(天正12)年に廃城となり、現在、城跡には標高270m の平坦地に土塁、空堀・井戸・門跡が残り、西南の隅には石垣が一部露出している10)。
全国統一事業期とその後の城郭
大坂城
1583(天正11)年から1598(慶長3)年にかけて豊臣秀吉は、石山本願寺の跡地に大坂城を築城した。秀吉は、1583(天正11)年6月に京都大徳寺で織田信長の一周忌法要を済ませると大坂の地に入った。大坂城の築城については、吉田兼見が『兼見卿記』の天正11年9月1日条に「自今日大坂普請之由申候」11)と記しており、1583(天正11)年9月1日から本格的に築城工事が始まったことがわかる。
築城開始直後の様子は、ルイス・フロイスがイエズス会総長にあてた1584(天正11)年1月2日(11月30日)付けの報告に詳しい。一部を抜粋すると、「最初は二、三万人を以て工事を始めたが、竣工を急ぐので遠方の諸侯に自ら来るか又己に代って其子をして家臣を引率して建築に従事せしむることを命じた。(同地より来た者の言ふ所に依れば)今は月々工場に従事する者五万に近い。又他の諸国の領主達には、其城の周囲に大なる邸宅を建築することを命じた為め、一人のパードレが同地より通信する所に依れば、諸人皆彼を喜ばせんと欲して少しも彼の命令に背かず、約四十日の間に七千の家が建った。」12)とある。築城工事には日々2、3万人から5万人が動員されたことや、強制的に大坂へ移住させられた諸大名とその家臣の邸宅が大坂城周辺にわずか40日間で7千軒も建てられたことなどが記されている。
築城の進捗状況についても、いくつかの史料が伝えている。それらによると、1583(天正11)年11月には天守の土台が完成し(『柴田退治記』)、引き続き本丸御殿や山里丸の茶室なども出来上がっている。築城工事に着手してから1年半ほど経た1585(天正12)年8月8日には、秀吉は山崎城から大坂城へ正式に移り、1586(天正13)年4月27日には、本願寺の使者下間頼康の一行を秀吉自らが天守に案内している(『貝塚御座所日記』)。
ルイス・フロイスは本丸の様子についても、1585(天正13)年10月1日(潤8月8日)付の報告書で次のように記している。それには「筑前殿は此所に新たな市を建設し、宮殿及び城を築いたが、信長が其の偉大なことを示す為め安土山に起した建築の比にあらず、遙に之に勝るものである。筑前殿は先づ同所に甚だ宏大な城を築き、其中央に甚だ高い塔を建て、堀・壁及び堡塁を設けた。堡塁は各々塔の如く入口に大小の門あり、門は鉄を以て覆うてある。是は其住居で、又最も親しい役人及び使用人の居所である。此処に其財宝を貯へ弾薬及び糧食の大なる家を建てた。右は悉く旧城の壁及び堀の中に築かれたが、古い部分も皆改築して、堡塁及び塔を附し、其の宏大・精巧・美観は新しい建築に匹敵してゐる。殊に重なる塔は金色及び青色の飾を施し、遠方より見え一層荘厳の観を呈してゐる。」13)とある。この記事から、秀吉が築いた大坂城は、信長の安土城より宏大であることや、各城門が鉄で覆われていること、建物は宏大で精巧であること、特に塔(天守)には金色及び青色の飾りが付され荘厳に見えることなど、大坂城の豪壮・華麗さを知ることができる。
「天正年間大坂城本丸小指図」14)(以下、「本丸図」と称す。)によれば、秀吉時代の本丸の規模は、周囲の堀を含めて東西約300m ×南北約450mの長方形に収まる程度であり、徳川時代の本丸と比べると少し小さい 。その形態は、東・西・北の三面を水堀が鉤形に囲み、南面と西南部は空堀となっている。大手の虎口(入口)は南面中央より西寄りにあり、土橋を渡って西向きに城門(「桜門」)を入り塀に沿って右折すると「表御殿」に至る。その「表御殿」には「御遠侍」・「御対面所」・「御台所」・「御料ノ間」・「御黒書院」・「御文庫」・「御風呂」・「御座ノ間」などと名付けられた建物が見られる。「表御殿」の東側を区切る南北方向の長大な「多聞櫓」(長局風の櫓)は、本丸東南隅の隅櫓と接続している。こうした「表御殿」は豊臣政権の政庁として、朱印状等の公文書の発行や命令、指示の伝達、公的な応接などが行われ、また、一番奥まった所の「御座ノ間」で政治に関する議論が行われていたものと考えられる。「表御殿」の北側には二重の石垣で囲まれた100mほどの一画が描かれており、その「詰の丸」には「奥御殿」を構成する建物が並ぶ。「表御殿」からは、南北に二重の番所を構えた城門をくぐり、さらに多聞櫓の下を通る鉄張りの大門を経て「同心番」のチェックを受けるなど、厳重な通行管理が行われていたと考えられる。この「奥御殿」には「御遠侍」・「御広間」・「御対面所」・「小書院」・「御焼火ノ間」・「御納戸御殿」・「御風呂屋」・「御物土蔵」などの名称の建物が見られ、名称が記載されていない建物もいくつか見られる。「奥御殿」の東北部、「詰の丸」の東北隅には、東西十二間、南北十一間の規模を誇る「御天守」が描かれている。また「詰の丸」の北側には高さ6間ほどの低い一郭があり、高さ3尺の石垣で東西2区画に区分されている。この場所は「本丸図」に記載されていないが、「山里丸」と呼ばれ茶室が散在していたことが知られている。この「山里丸」から北へ水堀をまたぐ木橋が架かっている。京橋方面へ通じる搦手口の重要な橋で、今日の極楽橋である15)。
こうした豪壮・華麗な大坂城の築城に、秀吉が着手した時期は小牧・長久手で徳川家康と戦い、毛利輝元・上杉景勝、紀州の雑賀・根来衆、四国の長曽我部元親、佐々成政などを次々に臣従させ支配権を拡大させていたときである。1585(天正13)年7月11日、秀吉は関白となり、朝廷の権威を背景に諸大名を支配下におき、新しい政権を樹立した。翌年には太政大臣の地位も獲得、豊臣姓を賜って関白太政大臣豊臣秀吉として全国統一を成し遂げようとした頃には、大坂城の外郭の築造にとりかかった。
1586(天正14)年5月4日に大坂城を訪問したルイス・フロイス(イエズス会宣教師)は、報告書の中で「濠は今大坂城の周囲に構築中であるが、絶えず六万人が之に従事し、……濠は幅四十畳深さ十七畳である。」16)と記している。また『日本史』においても「彼(秀吉)が大坂城の周囲に築かせた濠の工場は、副管区長(ガスパル・コエリョ)師が五畿内を訪れた時より二か月以上も前から行なわれていたが……」17)と記述している。コエリュ一行が畿内を訪れた2か月以上前とは、1586(天正14)年正月のことであり、秀吉が1月23日付で一柳末安に鋤・鍬・持籠などの調達を命じたり(『史料綜覧』)、2月23日付で加藤左馬助宛に「大坂築城石運掟書」(『大坂城天守閣所蔵文書』)を出した時期と重なる。この時期の築城工事は、大坂城の周囲に堀を構築することであるが、その堀幅が四十間(72m )、石垣の高さが十七間(30m 余)の規模であり、この堀は二の丸のそれをさしているものと考えられている。6年後の1594(文禄3)年には、「惣構堀」の開削工事が始まった。この時期には、伏見城の三の丸の石垣と「惣構堀」の工事も進められており、秀吉は諸将への課役を3分割して、それぞれの工事に充てるように命じている(『駒井日記』)。大坂城「惣構堀」の開削工事は1596(慶長3)年になっても続き、吉川広家や石川貞清らが動員されている(『吉川家文書』・『大坂城天守閣所蔵文書』)。
大坂城の築城工事は秀吉の没後まで続けられた。秀吉が没する3ヶ月前の1596(慶長3)年5月17日付と推定される「宮部兵部少輔宛秀吉朱印状」(『大坂城天守閣所蔵文書』)に同年6月10日からの大坂城普請への動員発令が見られる。同年8月時点の工事の進捗状況について、『日本西教史』は「大坂城の外郭に新たに建築する所の塁塀は周囲一里、昼夜を分たず勉励する匠工は数万人なり。当時大坂に住するを以て郊外に移転せしめられ、其家を破毀するの数合わせて一万七千戸に及ぶと云へり」18)と記している。外郭に新たに、周囲一里(約3.75Km )の土塁と塀を建造する工事と、それに伴い、1万7千戸の町家が強制移転や取り壊される大工事が、8月頃に日夜数万人を投入して行われるという内容である。翌1599(慶長4)年にも3月1日から「大坂城普請」が開始されることを伝える長束正家の書状が現存しており(『大坂城天守閣所蔵文書』)、秀吉没後まで大坂城の築城工事は継続していたことがわかる。このときの築城工事では、三の丸が新たに築造されたと考えられている19)。ただし、三の丸については、これまで位置・形状・規模などが明確ではなく、多くの議論がなされている20)。
大坂城は、秀吉が1583(天正11)年から1598(慶長3)年までの15年余をかけて築城した、「天下人」としての権力・財力を象徴する豪壮・華麗な城郭であった。しかし、1614(慶長19)年の大坂冬の陣で、すべての堀が埋められ、翌1615(元和元)年の大坂夏の陣で本丸も壊滅した。1620(元和6)年から1629(寛永6)年まで江戸幕府による再建がおこなわれたが、石垣をはじめ遺構すべてが地上から消滅し、秀吉時代の大坂城は地中に埋没している21)。
聚楽第
聚楽第は、豊臣秀吉政権の京都における政庁として、上京地区の西寄りの内野の地に築城された。『多聞院日記』などの諸資料によると、築城工事は1586(天正14)年2月21日から、大坂城のそれと並行して進められ、10万人以上の役夫がかかわったという。周囲を巡る堀は、全長千間、深さ三間、幅員二十間と推定されている。その位置については諸説があり、『山城名跡巡行志』では、南の境が一条、北が丸太町、西が大宮、東が千本の範囲とし、『京羽二重織留』では南北を二条から一条、東西を堀川から内野の範囲としている。築城工事は、豊臣政権の成立を背景として諸大名に割り当てられた。1586(天正14)年6月に四国・東国から用材が運搬され、翌15年正月には工事を終えている。その後、庭園の築造が始まり、木石は諸公家・寺社より徴発している(『兼見卿記』天正十五年正月二十四日条、ほか)。
秀吉は九州平定終了後の1587(天正15)年9月に聚楽第に移り、翌1588(天正16)年4月、秀吉は聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰いだ。このとき秀吉は天皇注視の中、29人の諸大名に絶対的服従を誓約させている。聚楽第の築城とそこへの移動、そして天皇の行幸は、秀吉の権力を天下に誇示し、また京都が初めて豊臣政権の城下町になったことを示すものとなった。
こうした聚楽第は1595(文禄4)年7月、秀吉の後継者で城主であった豊臣秀次が高野山に幽閉され、自害させられたことにより破却され、築城中の伏見城へ建物の大半が移された22)。
淀城
淀城は宇治・木津・淀・桂の河川の合流地点に位置する。1478(文明10)年、山城の守護畠山政長が西軍の畠山義就に備えるため、守護所を勝竜寺からこの城に移したのが始まりとされている。戦国の動乱の中で、細川氏や三好氏の属城となった。1568(永禄11)年、織田信長の入京により落城するが(『言継卿記』永禄十一年九月二十七日条)、1582(天正10)年6月、本能寺の変後、明智光秀が修築したとする(『兼見卿記』)。その後、豊臣秀吉が「天下人」になると、1589(天正17)年3月に秀吉の弟、羽柴秀長が修築し、秀吉の側室となった淀殿(信長の姪)が入った。その後、1592(文禄元)年に木村常陸介(羽柴秀次の重臣)が居城としたが、秀次没落後の1595(文禄4)年に廃城となった23)。
石垣山城
石垣山城は、1590(天正18)年に、豊臣秀吉が小田原平定の本拠(「陣城」)として築城した関東には希少な総石垣の城である。後北条氏の本拠である小田原城から3㎞離れた標高約240mの尾根上に立地する。石垣山城は「石垣山一夜城」あるいは「太閤一夜城」と呼ばれているように一夜城の伝承をもつ。『北条記』(関白勢囲小田原事)の「卯月朔日より人数を石垣山の松森の間へ上げ陣屋を作り、矢倉を上げ、四方の壁を杉原紙にて張しかば、一夜の中に白壁の屋形が出来る。さて普請出来ければ、関白陣屋へ御移りあり。面向の松の枝ども切りすかしければ、小田原勢肝をつぶし、こはかの関白は天狗か神か。かやうに一夜の中に見事なる屋形出来けるぞや、と松田が教へたるとは夢にも知らで、諸人恐怖の思をなすも理なり」24)という記述がある。それには陣営の前面に杉原紙を張り白壁のようにみせ、ある日前面の樹木を切り払うことで、一夜にして城が完成したように見せた。そのことで、後北条方は一夜の中に巨城が山上にそびえ立っているので恐れたことが記されている。これらと類似した記述は『関八州古戦録』にもあり、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったという。こうした記述から一夜城の伝承が生じたと考えられる。しかし、実際は4月6日前後の築城工事開始から6月下旬までの約80日を費やして築城された。
秀吉は、臣従をしない後北条氏を攻めるため、1590(天正18)年3月1日に京都を出発、山中城など後北条氏の前線の諸城を攻略し、小田原城包囲の態勢を整えた4月6日、箱根湯本の早雲寺に着陣した。秀吉は、小田原城を見下ろす笠懸山に登り、石垣山城の築城を決断したものと考えられるが、正確な築城開始日については不明である。諸資料によると、1590(天正18)年4月28日付の芝山宗勝の書状に「御座所もはや石くみも、御てんも、らい月にハいてき候ハんまゝ、やかて御かいちんなされ候ハんとの事候、たいりやく七月中にハ、御かいちんにて候へく候、……」25)とあり、石垣、御殿とも5月中には完成し、7月中には秀吉が移ってくる見通しである、と記されている。しかし、『伊達日記』では、伊達政宗が秀吉の下に参陣した6月9日段階で「小田原御陣所ニ石垣御普請被成候半ニ」26)と、石垣の普請は終了しておらず、6月20日付の古田織部宛千宗易の書状でも「関白様被仰付候御城も、漸當月出來にて候、然者還御あるへく候哉」27)と、6月中の完成を報告している。そして、徳川家康の家臣である松平家忠の日記の「廿六日、丙申、関白様石かけの御城へ御うつり候、‥‥」28)という記述から、6月26日に秀吉は石垣山城に移ったことが確認できる。
石垣山城の規模については、秀吉が5月20日に浅野長政と木村常陸介に宛てた書状の「‥‥、聚楽又ハ大坂の普請を数年させられ候ニ不相劣様ニ、被思食候、‥‥」29)という記述がある。また、家康の重臣榊原康政が加藤清正に宛てた書状に「上様御陣城ハ、‥‥、御屋形造様子廣大成分野、凡聚楽・大坂難劣相見候、其外一手ゝゝ構陣城、天主・矢倉白壁輝天、‥‥」30)と記されている。石垣山城は小田原城攻めの「陣城」でありながら、石垣・瓦葺き建物・天守を特徴とする大坂城や聚楽第と同じ規模の本格的な城郭であったのである。
石垣山城からは「辛卯八月日」銘と「天正十九年」銘をもつ瓦の破片が2つ採取されている。「辛卯八月日」は1591(天正19)年であり、小田原攻めが終わった1580(天正18)年の翌年も瓦葺き建物の建築が継続していたことになる。このことから、石垣山城は1591(天正19)年の奥州平定のときにも何らかの役割を果たしたことも指摘できる31)。
肥前名護屋城
肥前名護屋城(以下、「名護屋城」と称す。)は、1592(文禄元)年頃、豊臣秀吉が東松浦半島の北端に、文禄・慶長の役の拠点(「陣城」)として築城した城郭である。名護屋城は、台地が玄海灘に向かって突き出した波戸岬の付け根に当たる標高90m ほどの丘陵上に築かれ、東西両端に名護屋浦と串浦の二つの入江が控えている。この一帯は、大半が雑木林で覆われ、強風・干魃に見舞われなどして寂れたところであった。こうした土地に名護屋城が築かれた理由について、来日中のルイス・フロイスは本国へ宛てた書簡で、名護屋浦はリアス式の入江で湾口にある加部島が外波を防ぎ、天然の良港の条件を備えていることや、壱岐・対馬を経て朝鮮半島にも近いことなどを記している。名護屋城が築かれた丘陵には、以前から松浦党の波多三河守信時の家臣にあたる名古屋越前守径述の居城があった。
名護屋城の築城工事は1591(天正19)年10月に始まり、1592(天正20)年3月にはある程度完成していたと考えられている。黒田孝高が縄張りをおこない、加藤清正・小西行長・黒田長政・寺沢広高が普請奉行に任命された。九州の諸大名が動員されて築城工事は進められた。その様子について、ルイス・フロイスは、無人で食糧や物資がない地に、関白秀吉が諸大名に工事を割り当て、4・5万の人夫が過酷な労働を強いられたことや、わずか数ヵ月にして素晴らしい宮殿や城が造られたこと、また、何もなかった原野に一つの新都市が建設されたことを、本国に報告している。
築城期間はわずか5ヶ月余りであったという。秀吉の着陣に間に合わせるため、先に石垣と天守および本丸などの主要な殿舎が造られ、1592(天正20)年3月に加藤清正らの第一陣が渡海した後、東国の諸大名らの手により、引き続き裏乃御門・西ノ丸・東二ノ丸・本丸大手門・本丸裏表門・三ノ丸・本丸広間が造営された。明の使節楊邦亨が1596(慶長元)年6月に名護屋に来たとき、名護屋城と城下町を見た印象を「名護屋に関白秀吉の館があり、山によって城を築いている。山が険しく堅固であり、城は周囲に壕を掘り水を留め、城中は四面石垣を築き、その上に五層の天守が聳えている。街は人家が多く、店が並び繁盛して、そのにぎやかなことは対馬や壱岐の比ではない。」32)と記している。
名護屋城の縄張りや建造物、城下の様子については、1965(昭和40)年頃に発見された「肥前名護屋城図屏風」(以下、「城図」と称す。)により具体的に知ることができる33)。城図は名護屋城内の諸御殿の障壁画を描いた狩野光信によるもので、名護屋城を中心に、周囲に城下、諸将の陣、名護屋浦と串浦などが描かれているが、ここでは城内の構造や建物について整理する。まず本丸の部分には、西北隅の天守と5つの隅櫓が見られる。天守は白亜の五層の建物であるが、『名護屋家記録』に「殿主七階上り居候」とあることと、安土城や大坂城などとの比較から、穴蔵一階、石垣上六階の計七階であったと推定されている。天守の形式は「後期望楼型」に属するもので、小さな入母屋を2つ重ねた比翼入母屋造や、最上階の高欄が巡る御殿風建物などに特徴がある。本丸には多くの殿舎も描かれているが、その多くが檜皮葺きの書院造で、対面の場などの城中行事が執り行われる主要な建物であると考えられる。また城図には、秀吉が諸大名に茶を振る舞うなどした数寄屋造の建物も描かれている。
朝鮮出兵後の名護屋城は廃城となり、1602(慶長7)年に寺沢広高が6万3千石で唐津に入封し、唐津城を築城したとき、名護屋城の資材が転用された。また、明確な時期は定かではないが、石垣などの破却が行われ、現在、城跡には人為的に崩された石垣が広範囲にわたって残る34)。
伏見城
伏見城は、1592(文禄元)年に、豊臣秀吉が東山連峰の最南端桃山に築城した城である。秀吉は文禄の役が始まった後の8月に新たな隠居所として伏見に屋敷を造営することにした(『兼見卿記同元年八月二十日条』)。同年10月に二方面の石垣が完成し、翌1593(文禄2)年潤9月に秀吉はこの城に移っている。1594(文禄3)年には、明からの講和使節を引見するため、城域の拡張と本格的な築城工事が始まった。この「指月伏見城」の築城工事には、佐久間政家以下6人の造営奉行が任命され、朝鮮に出兵しなかった大名に対して、1万石につき24人の普請役が課せられた。石材は讃岐国小豆島から、木材は土佐・出羽などの遠国からも調達された。同年3月には淀古城の天守と櫓が移築され(『駒井日記』文禄三年四月十六日条)、翌1595(文禄4)年7月には豊臣秀次の没落によって解体された聚楽第の建物が移築されるなど、工事は継続した。しかし、1596(慶長元)年潤7月の慶長伏見地震によって石垣や建物が崩壊した。
「指月伏見城」の崩壊を受けて、秀吉は指月の地から東北寄りにある小幡山(桃山)に、改めて縄張りをおこない、伏見城の再建に着手した(『義演准后日記』慶長元年潤七月十四日
条)。この「木幡山伏見城」の築城工事は昼夜兼行でおこなわれ、同年10月10日に本丸、翌1597(慶長2)年の10月までに天守や殿舎、「舟入学問所」の茶亭などが完成している。
その後も築城工事は継続されたが、秀吉没後の1598(慶長3)年8月になっても未完成であったという。
秀吉の没後、徳川家康が入城し政務をとった。関ヶ原の戦いの直前、西軍の4万と称せられる大軍に攻め込まれ、8月1日に陥落して本丸・松の丸・名護屋丸以下ことごとく焼失した(『言経卿記録』『時慶卿記』)。その後、伏見城は1601(慶長6)年から家康により再建され、1603(慶長8)年2月、家康はこの城で将軍宣下を受けるなどしたが、1623(元和9)年7月の家光の将軍宣下を最後に廃城となった。伏見城の建造物の多くは、同年に築城が始まった淀城に移築され、城の機能も失われていった35)。
なお「指月伏見城」については、長い間、遺構が発見されていなかったが、2015(平成27)年
6月にマンション造成地から石垣や金箔瓦が発見された。石垣は南北36mにわたり出土し、長辺1m前後の花崗岩などで構成されていることが確認された。大小の自然石を野面積みしており、初期の大坂城本丸跡や聚楽第跡の工法とよく似ている。また、石垣西側には並行して最大幅7m、深さ2mの堀も見つかっており、堀の中からは慶長伏見地震後に埋却されたとみられる五七桐紋軒丸瓦片や唐草文軒平瓦片も多数出土している。これらの瓦片には金箔が貼られており、いずれも天守など城郭主要部に用いられたものと推定されている36)。
秀吉の権力強化と城郭の変化
中世城郭から「織豊系城郭」へ
豊臣秀吉は信長の家臣時代から、美濃の斎藤氏攻めで墨俣城、近江の浅井氏攻めで横山城と長浜城、中国平定戦で姫路城をそれぞれ築城、あるいは改築した。それらの城郭は、堀や土塁、郭などを基調とし、「戦うための城」として戦国の動乱の中で発展した「中世城郭」の特徴を有していた。
1582(天正10)年、信長が本能寺で明智光秀に討たれると、秀吉は直ちに中国地方から京へ戻り、光秀を山崎の戦いで破った。この直後に山崎城を改築して大坂城に移るまでの居城とした。この山崎城には石垣が築かれ、天守も建てられたとされている。また、秀吉は全国統一を進めていく中で、大坂城と聚楽第を築城し、統一後も小田原攻めの本拠として石垣山城、朝鮮出兵の前線基地として肥前名護屋城、そして関白引退後に政務を執る政庁として伏見城を築城した。これらの城郭は石垣・瓦葺き建物・天守を特徴とする「織豊系城郭」であり、城郭史上、安土城を画期とし中世城郭から近世城郭への移行期に位置付けられている37)。
これらの城郭の中でも、大坂城は信長の安土城を凌駕する豪壮・華麗な城郭であった。安土城の「天主」は、五層六階からなり六階が金の柱に群青の壁、五階が朱の柱、五層目の屋根に赤瓦が葺かれ、また屋根瓦には金箔瓦が用いられるなど、彩り鮮やかなものであった、と伝えられている。大坂城の天守は五層六階、地下二2階で、安土城とほぼ同じ規模であったと考えられている。天守内部の襖や壁には、金碧障壁画が描かれ、座敷には床・棚・付書院といった飾りが付けられた。「豊臣期大坂城屏風」によると、天守外部は黒漆塗りの外壁に金色に輝く巨大な菊紋や桐紋、牡丹唐草の彫刻で埋め尽くされていた38)。また、関白秀吉が京に政庁兼邸宅として築いた聚楽第の天守は、外壁が白漆喰による塗籠で、その最上階には高欄付きの廻り縁が巡り、華頭窓が飾っていた、と伝えられている。ルイス・フロイスが木造建築としてはこれ以上望めないほどに豪壮かつ華麗で、部屋や広間、台所までもことごとく金が塗られていた、と記すほどの豪華絢爛な建物であった。秀吉が隠居所として築城した伏見城にも、金箔瓦が使用されていたことが、近年の発掘調査から判明している。そして、秀吉が朝鮮出兵の本拠(陣城)として短期間に築城した肥前名護屋城の天守や殿舎にも金箔瓦が使用され、天守は最上階を除き白漆喰の塗籠で、聚楽第の天守よりも立派であったことが、様々な資料から知ることができる。
秀吉が全国統一の過程や統一後に築いた、大坂城・聚楽第・石垣山城・肥前名護屋城・伏見城は、それぞれ城郭としての性格や機能は異なるものの、「織豊系城郭」の完成形として「天下人」となった秀吉が権力や財力を「天下万民」に誇示するための城郭であった。
諸大名への築城工事の分担
豊臣秀吉は、大坂城をはじめ石垣山城、肥前名護屋城、伏見城などの築城において、これまでの常識では考えられない短期間で築城工事をおこない、織田信長の安土城を凌ぐ豪壮な天守等の建築を実現した。それを可能にしたのは、分担による築城工事の共同作業(「割普請」)や、秀吉が領国にした畿内及び周辺地域に存在した中世以来の伝統的技術者を支配下に組み込み、新たな築城技術者集団として再編成したことなどによる。
例えば、大坂城の築城にあたって、秀吉は1583(天正11)年6月、京都大徳寺で信長の一周忌法要を済ませた後、堀秀政や筒井順慶・細川藤孝らの諸大名を従えて大坂に入ると、大坂城築城の構想を明らかにした。8月7日には浅野長吉(長政)を通じて近江国の諸職人に百姓なみの夫役負担を免除し、かわりに大坂普請に動員することを命じた。また、河内千塚(八尾市)の石を運ぶこと、そのために千塚から若江(東大阪市)の本道までの道を至急つくるように一柳市介・小野木清次に命じている。8月28日には石運びの規則書を公布し、この日から諸大名は石の切り出しや運搬に動きだした。翌29日には芦屋など石切りの現場となる地域に禁制を公布し、石運び人足たちによる百姓への乱妨を禁じている。これ以降、築城工事は2万から3万人、年末には月5万人(『イエズス会一五八三年日本年報』)による突貫工事で進められた。
1585(天正13)年4月27日に本願寺の使者が大坂城を訪れたとき、秀吉自ら天守を案内しているので、それまでに天守は完成していたと考えられる。また、秀吉は晩年の1598(慶長3)年にも病床から大坂普請の指令を出している。このときの築城工事は、3里におよぶ城壁の新築、すなわち三の丸の造築が中心で、1598・99(慶長3・4)年におこなわれ、毛利家の1万2000人をはじめ、諸大名は多くの人夫を動員させられている39)。大坂城の築城工事には近江国をはじめとする畿内の諸職人や、諸大名が動員した多くの人夫がかかわっており、その数は月に5万人とも伝えられている。その詳細は不明なところが多いが、大坂城の築城は、豊臣政権に組み入れられた諸大名への「割普請」(工事の分担)により円滑に進められたと考えられる。
1591(天正19)年の肥前名護屋城の築城にあたっては、秀吉は「普請」(土木工事)と「作事」(建築工事)とに分けて諸大名に命じた。「普請」については、黒田長政・小西行長・加藤清正・筑後衆といった九州の諸大名に命じている(『相良家文書』)。一方の「作事」は、「名護屋旅館御作事衆」と呼ばれる畿内近国の諸大名や豊臣蔵入地の代官、肥前の大名に分担させている。その中心となったのは畿内近国の諸大名と蔵入地の代官であり、彼らが掌握している高度な技術をもった畿内近国の諸職人を「作事」に大量動員したのである。
1592(文禄元)年8月からの伏見城の築城は、秀吉にとって最後の大規模な築城であったが、それと並行して朝鮮出兵がおこなわれていた。そのためか、1594(文禄3)年正月からの大規模な「普請」を賦課され人夫を動員させられたのは、朝鮮に渡海することがなかった東日本の諸大名が中心であったことが指摘されている40)。伏見城の「普請」・「作事」には朝鮮出兵中の大名を除き、石高に応じて人夫が動員され、また、築城用の資材については、畿内近国から石・竹等を、全国から材木を調達している。
以上のように、大坂城・肥前名護屋城・伏見城の築城にあたって、秀吉は畿内近国の諸職人を動員し、豊臣政権内の諸大名や豊臣蔵入地の代官等に築城工事を分担させ、彼らの掌握する諸職人を動員した。また、伏見城の築城資材については、全国の諸大名に軍役賦課することで調達したのである。そして、このことは諸大名にとっても、最新の築城技術を習得し、領国内に大坂城や伏見城のような完成した「織豊系城郭」を築城できるという利点があった。
秀吉の城郭政策
金箔瓦の使用統制
織田信長は政権強化策の一つとして、天守構築の有無、瓦使用の規制、新規築城の許認可などの城郭政策をおこなった。そのうち瓦の使用については、家臣の城郭に安土城と同一の瓦や金箔瓦の使用を制限していたことが確認できる41)。現在、信長の家臣のうち瓦の使用が確認できる城郭は、羽柴秀吉の長浜・姫路城、明智光秀の坂本・亀山・福知山城、佐々成政の小丸城、高山右近の高槻城、荒木村重の有岡城、佐久間信盛が在番した若江城などである。これらの城郭から出土する瓦は、安土城の瓦とは異なる様式で金箔瓦でもない。安土城と同一の瓦は、次男信雄の松ヶ島城、甥信澄の大溝城で確認されているだけである。また、安土城と同様の金箔瓦も嫡男信忠の岐阜城、次男信雄の松ヶ島城、三男信孝の神戸城でしか確認できない。
信長は安土城と同一の瓦は子息と一門衆、金箔瓦は子息に限り、その使用を許可するという規制を設けていた。織田政権においては、巨大な軍事統率権や地域支配権を有する重臣であった秀吉や柴田勝家でさえ、安土城と同一の瓦や金箔瓦を使用することは許されていなかったのである。
1582(天正10)年、本能寺の変で織田政権は崩壊し、その後継者となった秀吉は、1583(天正11)年に大坂城の築城に着手する。大坂城の瓦にはルイス・フロイスの『日本史』における記述や、発掘調査において多種多様の金箔瓦が出土していることなどから、天守だけでなく「殿主」など主要な建物にも金箔瓦が使用されていたと推定できる。ただし、大坂城で出土した金箔瓦は、金箔の貼り方が稚拙で安土城の瓦に比べて完成度が低いことから、秀吉は細部の完成度よりも安土城を凌駕する大規模な居城を築くことを優先したことが指摘されている42)。
その後、秀吉は聚楽第・伏見城・肥前名護屋城でも金箔瓦を使用しているほか、弟秀長や甥秀次などの一門や親族の居城にも金箔瓦の使用を認めている。例えば、秀長の和歌山城、秀次の八幡山城・清洲城、また羽柴秀勝の丹波亀山城、宇喜多秀家の岡山城である。織田政権下では、織田一門以外には使用が認められなかった金箔瓦を豊臣(羽柴)一門にも認めたことは、秀吉が織田政権の正当な後継の地位を得たことを天下に示すことになった。しかし、豊臣政権の初期は、金箔瓦の使用は豊臣一族が独占するものではなかった。1586(天正14)年、織田信雄は清洲城の改修にあたり金箔瓦を使用しており、豊臣政権が金箔瓦の規制を完成させるのは、1590(天正18)年の信雄の領地を没収した後であると考えられている。
また、秀吉は家臣や臣従した大名の居城にも金箔瓦の使用を認めた。最上義光の山形城、相馬氏の小高城、蒲生氏郷の会津若松城、真田昌幸の沼田城・上田城、仙石秀久の小諸城、石川数正・康長父子の松本城、浅野長政・幸長父子の甲府城、中村一氏の駿府城、高山右近の高槻城、毛利輝元の広島城、毛利勝信の小倉城、黒田孝高の中津城、小西行長の麦島城、有馬晴信の日之江城、島津家久・豊久父子の佐土原城の16城である。そして、それらの城郭の金箔瓦の使用状況の内訳は、豊臣一門の城郭と同様に、軒丸瓦・軒平瓦が金沢城・駿府城・小諸城の3城のみで、他の13城は鯱・鬼・飾り瓦の役瓦のみに使用されている。
以上のような金箔瓦の使用状況から、豊臣政権の城郭政策の一端を次のように整理することができる。まず、金沢城において、豊臣一門と同様に金箔瓦の使用が許されたのは、城主の前田利家が豊臣政権内で一門同様の扱いを受けていたからであると考えられる。
駿府城・小諸城については、主要街道に位置し、東海道、東山道から徳川家康の領国である関東への入り口にあたることが重視された。また、この2城に加えて沼田城・上田城・甲府城・小高城は、家康領と接する国に位置していること、この時期の家康領内の城郭は、土造りで、建物は瓦を用いない粗末なものであったことも踏まえると、豊臣一門以外で金箔瓦の使用が許可された城は、家康配下の武将や一般民衆らに対して、豊臣政権の財政力や統一政権としての安定性を誇示する役割を果たした。そして、京都から九州に至る主要街道沿いの金箔瓦使用の城は、秀吉の西進を飾るためや、朝鮮・明からの使節に見せつけるためであったと考えられている43)。
以上のように、秀吉は、信長が自身や子息のみに用いた金箔瓦を一門の城をはじめ、関東の家康領国を囲む主要な城郭や、京都から九州に至る主要街道沿いの城郭にも金箔瓦の使用を拡大した。秀吉は、信長が使用を規制した金箔瓦をより政治的に活用して豊臣政権の強大な権力を示した。また、政権にとって最大のライバルであった家康や、朝鮮・明からの使節を牽制する材料とするなど外交手段としても活用したのである。
城郭の破却
織田信長は軍事力で制圧した地域の支配を確実にするために、敵対して抵抗した武将の城郭だけを破却したのに対して、秀吉は敵対せず恭順した大名や武将の城郭をも破却の対象とした。秀吉の「破城」(城郭の破却)の目的は、1583(天正11)年5月の史料から、謀叛の未然防止であることがわかる。この史料は側室にあてた消息の一部ながら、「くにゝのしろわり候て、これいこむほうなきやうニいたし申候」44)と、「むほう」(謀叛)を未然に防止するために「しろわり」(城破り)をおこなうとする「破城」の目的が明確に記されている。これ以降、秀吉は全国統一事業を進めていく中で、「破城」や新規の築城を命じていった。
例えば、1584(天正12)年10月下旬の伊賀平定において脇坂安治に伊賀一国の諸城の破却を命じ、11月3日にはこれを督促している。同年11月13日付の伊木忠次らにあてた秀吉朱印直書に示された小牧・長久手の戦いの講和条件には、敵味方ともこの戦いのために築いた新城は停戦講和と同時に破却するという内容がある。1585(天正13)年3月の紀伊平定においては、根来衆の重要な城郭であった積善寺城を不戦開城させたが、破却の対象としている。関白就任後、1587(天正15)年の九州平定においては、「筑前・筑後・肥前、立置候城々外、少々の屋敷構成共、不残可破却候」45)とあるように、不要な城郭の破却は徹底しておこなう一方、一郡一城程度で必要な城郭は残され、その改築もおこなわれた。その際、必要とする居城や存続させる城郭の選定は、その地の大名や領主の判断に任せられ、秀吉方の武将が破却と築城工事を担当した。なお、城郭の破却と知行との関係については、秀吉に敵対した者は城郭を破却され、知行を没収されるが、戦わずして降伏した者については、城郭は破却、知行は安堵するという方針が認められる。1590(天正18)年の小田原平定においては、織田信雄の清州城・星崎城、徳川家康の岡崎城・浜松城などに、秀吉直属の武将が在番し留守居を務めることが実施され、奥州平定においても同様なことがおこなわれている。その奥州平定では、九州平定のときからの存続させる城郭を豊臣政権が築城工事をおこない、その地を治める大名や領主に引き渡していくという方式も完成をみたのである46)。
以上のように、秀吉は信長の城郭政策をより強化し、豊臣政権の権威や権力を高めるために最大限に活用した。伊賀平定・紀伊平定など全国統一過程の初期においては、軍事力による制圧や恭順の区別なく、新たに政権に組み入れた大名や武将に対して、不要な城の破却を命じた。関白就任後は、城のは客に加えて、存続させる城郭を豊臣政権側で築城工事をおこなった上で大名や領主に引き渡している。さらに、小田原平定でみられるように、有力武将の城郭を秀吉の家臣が在番できる仕組みも整えた。これらの政策により、秀吉は全国の城郭を自由に管理する権限を得たのである。
おわりに
豊臣秀吉は戦国時代末に下層民の家に生まれながらも、織田信長の家臣を経て全国統一を成し遂げた。信長の家臣時代から全国統一後も多くの城郭を築城あるいは改築した。秀吉ゆかりの城郭は多くあるが、本稿では墨俣城・横山城・長浜城・姫路城・山崎城・大坂城・聚楽第・淀城・石垣山城・肥前名護屋城・伏見城の11城について、秀吉の事績と関連付けながら、特徴や築城の背景・経緯などについて次のように整理した。
墨俣城・横山城・長浜城・姫路城の4城は、土塁や堀、郭配置を基調とする中世城郭の枠をでないもので、戦いに勝つことを優先した「戦うための城」として機能した。山崎城・大坂城・聚楽第・淀城・肥前名護屋城・伏見城の7城は、信長が築いた安土城を画期とし、石垣・瓦葺き建物・天守を特徴とする「織豊系城郭」の性格を有している。中でも大坂城は、安土城を凌駕する宏大で豪壮な城郭であり、聚楽第も京都における豊臣政権の政庁として豪華絢爛なものであった。また、石垣山城は小田原城攻め、肥前名護屋城は朝鮮出兵の本拠として短期間で築かれた「陣城」であったが、豪壮な天守や殿舎などが建てられた、本格的な「織豊系城郭」であった。さらに、伏見城は、当初は秀吉の隠居所として計画されたが、政治情勢から政庁としての機能をもつようになった。近年の発掘調査から、伏見城には金箔瓦が使われていたことが明らかになっている。これらの城郭は「天下人」である秀吉が権威や権力、財力を誇示する「見せるための城」としての役割を果たしたのである。
大坂城や伏見城などの豪壮な城郭の築城工事を支えたのは、畿内近国の諸職人や豊臣政権内の諸大名、蔵入地の代官等であった。秀吉は「割普請」により諸大名や代官に築城工事を分担させ、彼らの掌握する諸職人の動員、築城資材の調達をおこなわせた。一方、諸大名にとっては、この「割普請」により最新の築城技術を習得することができ、領国内に大坂城と同じような城郭を築くことを可能にした。
次に、秀吉は城郭政策として、金箔瓦の使用統制、城郭の破却などを実施した。金箔瓦の使用統制については、豊臣一門の居城をはじめ、関東の徳川家康の領国に接している国の主要な城郭、京都から九州に至る主要街道沿いの城郭において、その使用を許可した。信長が子息の城郭のみに認めた金箔瓦の使用を、秀吉は拡大することで、豊臣政権の強大な権力を誇示したのである。城郭の破却については、信長が敵対抵抗した武将の城郭のみを破却の対象にしたのに対して、秀吉は敵対せず恭順し、政権内に組み入れた大名や武将の城郭であっても、不要であれば破却の対象にした。一方、領国支配に必要な城郭については、政権側で築城工事をおこない、その地の大名や領主に引き渡して新しい拠点にするということも見られる。
以上のように、秀吉は石垣・瓦葺き建物・天守を特徴とする「織豊系城郭」を発展させて、信長の安土城を凌駕する大坂城などの宏大で豪華絢爛な城郭を築城した。こうした城郭は「割普請」や城郭政策を通じて全国に築かれるようになった。当時の人々は街道を行き来したり、城下に入るときに、金箔瓦や様々な飾りに彩られた豪華・絢爛な天守や殿舎を目にすることとなり、秀吉の権力や財力に驚いたことであろう。秀吉は権力や財力を見せつけるために、城郭を最大限活用したのである。
著作:武井政弘
大学で日本史学を専攻し古代史や考古学を学び、古墳や奈良・平安時代等の遺跡の発掘調査に従事した。卒業後も高等学校で日本史を教えながら、考古学や歴史教育関係の研究会に所属し、古噴や城郭などに関する報告書の作成や論文等の執筆を続けている。現在は、主に歴史教育における考古資料や城郭資料の効果的な活用について研究している。
註
1)加来耕三 1991年『武功夜話―現代語訳 (信長編)』新人物往来社
2)平井聖・村井益男・村田修三編 1979年『日本城郭体系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社
3)墨俣町史編纂委員会編 1956年『墨俣町史』墨俣町
4)平井聖・村井益男・村田修三編 1980年『日本城郭体系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社
5)平野庸脩 1909年『播磨鑑』播磨史談会
6)内外書籍編 1937年「豊鑑」(『群書類従』第16巻 内外書籍株式会社 所収)
7)竹中重門が秀吉に仕えた場所は、1583(天正11)年以降の大坂城である。姫路城については、1592(文禄元)年の朝鮮出兵の際、秀吉に従って肥前名護屋城に赴くときに見聞した程度と考えられている(西 和夫 1981年「姫路城とその築城背景」『日本城郭大系』第12巻)。
8)平井聖・村井益男・村田修三編 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社、文化財保護委員会編 1965年「天守及びその周辺の諸櫓・門等修理工事報告」『国宝重要文化財姫路城保存修理工事報告書3』 文化財保護委員会、ほか
9)金子 拓・遠藤珠紀 2014『兼見卿記 (史料纂集 古記録編)』八木書店
10)平井聖・村井益男・村田修三編 1980年『日本城郭体系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社、村田修三編 1992年『図説中世城郭事典 第二巻 中部・近畿一』新人物往来社
11)前掲9)
12)村上直次郎訳 1943年『耶蘇会の日本年報』拓文堂
13)前掲12)
14)「豊臣時代大坂城本丸図」とも呼ばれている。現在、代々江戸幕府の京都大工頭を勤めた中井家に2枚、広島市立中央図書館の浅野家文庫に1枚が所蔵されている。「本丸図」の史料としての的価値については、桜井成広・宮上茂隆・北垣聡一郎各氏の論考や、大阪城天守閣職員による本丸地盤ボーリング調査の成果などにより、その信憑性が高く評価されている。
15)笠原和比古・黒田慶一 2015年『豊臣大坂城 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略』新潮社
16)前掲12)
17)松田毅一・川崎桃太訳 2000年『完訳フロイス日本史4 (豊臣秀吉篇 1)』中央公論新社
18)ean Crasset・太政官 1931年『日本西教史』 太陽堂書店
19)前掲15)
20)例えば、桜井成広氏は「慶長年間大坂城図」他に描かれている馬出曲輪をそれに比定し、惣構とは別の外郭であることを提唱し、岡本良一氏は三の丸と惣構との区別をより一層明確にするとともに、天満橋あたりから谷町筋を南下、谷町三・四丁目の境で少し東に折れ、さらに南進して龍造寺町から東へ折れ、曲折しながら森之宮東之町あたりへ続く線を三の丸の堀跡に比定している。また、1980(昭和55)年7月に仙台市内で発見された『僊台武鑑』所収の大坂冬の陣配置図には三の丸とみなすべき一郭が明瞭に描かれており、今後の研究が期待されている。
21)平井聖・村井益男・村田修三編 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社、笠原和比古・黒田慶一 2015『豊臣大坂城 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略』新潮社、ほか
22)平井聖・村井益男・村田修三編 1980年『日本城郭体系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社、日本史研究会編 2001年『豊臣秀吉と京都―聚楽第・御土居と伏見城』文理閣 、ほか
23)前掲4)
24)『北条史料集』所収
25)「五島慶太氏所蔵文書」(『神奈川県史』資料編三古代・中世三下 九六八二号)
26)「伊達日記中」(『群書類従』二一号 巻三九〇 所収)
27)「東京国立博物館所蔵文書」(桑田忠親『定本千利休の書簡』所収)
28)『続史料大成』(「家忠日記」二 所収)
29)「浅野文書」(『神奈川県史』資料編三 古代・中世三下 九七八四号)
30)「松平義行所蔵文書」(『神奈川県史』資料編三 古代・中世三下 九八一〇号)
31)武井 勝 2007年「相模国における織豊系城郭の出現 -石垣山一夜城築城の意義を中心に-」(『神奈川の歴史をよむ』山川出版社 所収)
32)黄慎著・若松實訳 1999年『日本往還日記 : 壬辰倭乱に於ける明国冊封使・朝鮮通信使の和親交渉の記録』日朝協会愛知県連合会
33)佐賀県立名護屋城博物館 2016年『「肥前名護屋城図屏風」の世界』(2010年テーマ展解説書)
34)平井聖・村井益男・村田修三編 1980年『日本城郭体系 第17巻 長崎・佐賀』新人物往来社、佐賀県立名護屋城博物館 2013年『肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城』(2009年特別企画展図録)、ほか
35)平井聖・村井益男・村田修三編 1980年『日本城郭体系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社、日本史研究会編 2001年『豊臣秀吉と京都―聚楽第・御土居と伏見城』文理閣 、ほか
36)産経新聞 2015年6月18日「天下人・秀吉の『幻の伏見城』石垣や瓦片出土 京都の造成地」 (http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/150618/lif15061821170015-n1.html)
37)加藤埋文 2012年『織豊権力と城郭 ―瓦と石垣の考古学―』高志書院、千田嘉博 2000年『織豊系城郭の形成』東京大学出版会、中井均 2000年「城郭にみる石垣・瓦・礎石建物」(小野正敏・荻原三雄編『戦国時代の考古学』高志書院 所収)、中井均 1990年「織豊系城郭の画期ー礎石建物・瓦・石垣の出現ー」(村田修三編『中世城郭研究論集』新人物往来社 所収)、ほか
38)高橋隆博 2016年『新発見 豊臣期大坂図屏風』清文堂出版
39)朝尾直弘 1993年『体系日本の歴史⑧ 天下統一』小学舘
40)中川和明 1988年「豊臣政権期の城普請・城作事について」『弘前大学國史研究』85
(http://hdl.handle.net/10129/3039)
41)加藤埋文 2012年『織豊権力と城郭 ―瓦と石垣の考古学―』高志書院
42)前掲41)
43)前掲41)
44)東京帝国大学史料編纂所編 1938年『豊太閤真蹟集』東京帝国大学史料編纂所
45)1587(天正15)年6月15日浅野長吉・戸田勝隆あて秀吉朱印直書写(深堀文書381『佐賀県史料集成』4)
46)小林清治 1994年「信長・秀吉権力の城郭政策」(『秀吉権力の形成――書札礼・禁制・城郭政策』東京大学出版会 所収)
2019年8月4日 脱稿