改めて考察してみた中世に興った『武士』という存在~即ち『武装農場主/地主』

 平安末期から鎌倉期(12世紀後半、中世初期)にかけて、当時坂東(或いは東夷)と呼ばれていた関東地方、特に相模・伊豆・武蔵、房総半島一帯など南関東各地に割拠していた東国武士団たちが、軍事貴族出身である源頼朝を代弁者/棟梁として推し立てることにより、相模鎌倉にて武士政権を確立したのは誰もが知る史実であります。
 その日本史の重要転換点である武士政権を確立した主人公である東国武士団とはどういう存在なのか?それは、(現代風に譬えるなら)、全員が米穀や馬などを生産育成する『農地地主/農業経営者』であるということであります。ただ、中世に存在したこの農業経営者たちが、現在の自営農家さんと違う点は、武士と呼ばれる『武装した農業従事者』であったということであります。
 中世当時、坂東の地を開拓していた大小の農場主(地主)たちが、当時の主流武器であった弓・薙刀(長刀)・馬で武装して、農作業の余暇には武芸・馬術といった軍事調練をしていたのか?という次なる疑問が浮かんでくるのですが、それは近代的民法や商法が確立されていない当時は、武士団の土地所有権が非常に曖昧であったので、彼らは一族と財産(本領)を自己防衛するために武装したのであります。これが、後に武家政権の礎を築くことになる東国武士団が興った主因であり、彼らの存在主題が『一所懸命(のちに一生懸命に転化)』という四字熟語で表現されるのは有名であります。
 即ち、自分が開拓した土地(領有権)を護るために鎧兜を身に着け、弓馬術の鍛錬に励み、軍事力を養った受動的な目的であったのです。後に武士は、織田信長の兵農分離が嚆矢となり江戸期になると、農地農村から切り離された武道専一の官僚武士的な存在となりますが、武士の根本は自分の農地を自己防衛するものでした

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 日本中世期、唯一中央政府的存在であるはずの京都朝廷は、武装農場主である東国武士団とって「公事雑事(夫役や諸事賦役)」を一方的に課してくる収奪者的存在であり、朝廷は各国や各郡に、租税徴収機関というべき国衙や郡衙を設立し、その土地から上がってくる租税を徴収し、京都朝廷に納めている体制でした。
 上記において国衙を租税徴収機関と称した理由は、畿内の京都朝廷はじめその地方官である国衙の長官・国司(受領とも)、あるいはその代理である目代も、自分たちの懐を潤す各地から上がってくる「税(律令制でいう租庸調)」の徴収にしか興味がなく、その租庸調を生産してくれる農民たちに対する民政や福利厚生を考慮することは皆無でした。当時の京都朝廷は、即ち律令国家は、各地の農民を間接的に支配、彼らから租税や労力を強力な掃除機の如く、容赦なく吸い上げたのであります。
 また先述のように、京都朝廷の代理人として、各地の国衙に派遣されてくる国司たちは、一様に強欲な連中であったとされ、『転んでもただは起きず、立ち上がった時は土をつかんでいる』、と揶揄されるほどでした。その国司の代理人であった目代も土着豪族に対して空威張りする小人的な者が多く、嫌われ者であったと言われ、源頼朝と東国武士団が、伊豆で挙兵した際、同地の目代である山木兼隆が、真っ先に彼らの血祭りにあげられたのは、やはり地元武士団からの評判が悪かったからでしょう。
 西暦7世紀に始まったとされる日本の律令国家(当時の大和朝廷、後の京都朝廷)は、中央集権として公地公民(一種の共産主義)を掲げ、各地の農地や民衆支配、租庸調を生み出す能力を把握することを強化しましたが、それも東国武士団が歴史の表舞台に登場する時期(中世)になると、中央政権内の有力者同士の相剋、国司と地元役人(郡司や在庁官人)との対立などが原因となって、律令制が綻びはじめ、国家権力者である上皇(院)・摂関家など有力貴族・伊勢神宮や比叡山といった有力社寺が私有地を有する『荘園制』が登場するようになってきます。因みに、この荘園制と公地公民の律令制の2つを併せて『荘園公領制』と呼ばれることもあります。
 公地公民を旨とする京都朝廷/律令国家であるはずであるのに、その中心核に属している上皇(皇族)や公卿といった高級層の一部が私有地=荘園を作り出したのです。よって、私有地(荘園)の大元締めたる「上皇や皇族」、公地公民体制の大親分の「天皇」は、親族同士ながらも、深い対立関係にあったのです。
 正しく矛盾を孕んだ厄介な二律背反の統治体制の登場であり、これが日本を覆っていたのが10世紀~11世紀の平安末期であり、京都朝廷の勢力圏を遠く離れた鄙びた東国(坂東)でも、この二重構造支配が負担になっていました。
 坂東各地の農村や農地を事実上支配している豪族・地主たち、即ち東国武士団は、公地公民の総本山である京都朝廷(天皇)が派遣してくる「中下級貴族(国司や目代)」の厳しい租税徴収の脅威に晒される中、それを可能の限り回避するために武士たちは、自分たちが事実上領有している農地を、国司よりも上層部に属する上皇・公卿、あるいは伊勢神宮・石清水八幡宮などといった大社寺に荘園として「寄進」し、国司を通じて来る京都朝廷からの厳しい租税徴収から護ってもらう方法を採るようになります。
 農場地主である東国武士団は、自分たちの領地を、中央政権の有力者(荘園を領有する人々、「本家職」、またはその一段格下の「領家職」と言いますが)に寄進して、武士たちは形式上、荘園の現場管理人(「荘官」「下司職」)になることで、自分たちの農地領有権を保持することに腐心したのです。
 しかし、この荘園制を利用する武士団の保身術も諸刃の剣のような危うさを孕んでおり、荘園保有者である公卿や大社寺らに定期的にお礼/名義料(上納米)を献納しなければならない上、最悪の場合、公卿たちの気分次第で、武士たち(荘官/下司)は容易に農地領有権(荘園管理人の地位)を没収され、忽ち無一文の境遇になってしまうこともあったのです。そういう負の面があるからこそ、中央政権の有力者からなる荘園領主(本家職)たちに、完全依存するというのも危険なものであったのです。
 東国武士団は、京都朝廷からの容赦ない租税徴収、中央政権の有力者である荘園制の2者間の複雑な政治構造を、這いずり廻るが如く動き、己たちの農地領有の保全に命や財力を賭し続けたのであります。
 現代政治でも大都市圏の発展を最優先し、そのために必要な財力や労力、負の部分は地方に負担させることが国会での論点になっていますが、この政治構造は、近現代の産物ではなく、既に遥か昔の古代から中世の日本にもあったのです。

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 以上のような矛盾にまみれた国家統治に、社会的および経済的に大いに苦悩させられた(中央政権の有力者から見れば)底辺層の武装農場主こと東国武士団が、自分たちにとって「都合の良い世の中」を創るために武家貴族であった源頼朝を旗頭として擁立、鎌倉の地に武家政権を樹立したのが、現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代であります。
 それまでは、自分たちの農地を護るために、奴隷的(番犬的)のような卑屈な態度で、京都朝廷やそれに連なる有力者に膝を屈してきた東国武士団ではありましたが、12世紀後半にもなると、農業器具の発展(鉄製農具の普及)したことにより農業生産が向上し、それに伴って農民や郎党を多く養えるほどの力を付けた武士団は、「そろそろ偉そうな京都朝廷の連中と縁を切って、自分たちの独自組織を樹立してもいいのではないか」という独立心を、より強くするようになったのです。大河ドラマで、名優・佐藤浩市さんが演じられ話題となった有力東国武士の1人・上総広常は、その典型的武士というべきでしょう。
 日本中世史(鎌倉期)をご専門とされていることでお馴染みの本郷和人先生(東京大学史料編纂所教授)は、後に鎌倉幕府と呼ばれる元祖武士政権を確立した東国武士団、そのリーダー源頼朝らを『源頼朝とその仲間たち』『鎌倉幕府は、武士による武士のための政権』というように称されておられますが、「武士のため」という意味は、「自分たちの農地農村(領地)を護る!」と一言に尽きるのです。
 いつ何時、律令国家(荘園制)によって自分たちの農地を没収されるか判らない不安定で脆弱な土地所有権に苦悩していた東国武士団たちにとって、何より嬉しいモノ(切実な欲求と言ってもいいかもしれません)は、『確固たる土地所有権/権力者からの安堵』『自家の農地拡大/新地恩給』の2つでした。
 その2大欲望?を強く持っていた東国武士団が創った政権ですから、それ以降も続く室町・戦国・江戸といった武士政権でも、「土地の所有者(江戸期でいう知行取り武士)」が何よりの名誉となり、武士のステータスもどれぐらいの規模の領地(農地)石高・草高を持っているということが、(京都朝廷から下賜される官職と並んで)、何より重要視されるのです。
 北条義時、そのライバルである比企能員や三浦義村といった鎌倉御家人(東国武士団)、鎌倉政権の担い手たちを嚆矢とし、後に室町幕府を樹立する足利尊氏、その与党武士の高師直や佐々木道誉、戦国期から近世初期に躍動した武田信玄や毛利元就をはじめとする武将や国人衆(地侍)という各期における武士政権の担い手たち皆、自分たちの農地農村を保全、更なる農地拡大を獲得(切り取り)することを根幹とした農場主武士たちであります。
 鎌倉殿・源頼朝、室町幕府(北朝)の初代総帥となった足利尊氏、江戸260年にも及ぶ長期政権を創始した徳川家康という各期の武家政権樹立に、大小名(高名な有力武士から無名の武士)たちが従った最大の理由は、「彼に従っていれば、自分たちの農地農村領有権、即ち領地安堵をしてくれるから安心」という欲望からであります。
 源頼朝や足利尊氏といった武家の最高権力者から自分たちの所領安堵/土地所有権を勝ち得た農場主武士たちは、安心して自分たちの農場経営に勤しむことができ、努力次第では、保有している農地から算出される米穀などの生産量が向上するのであります。米などの生産量が上がると、それを糧として、より多くの一族や郎党・農民たちを増やすことが可能となり、結果的に農場主武士の戦力や地位向上、更なる所領拡大へのチャンスに繋がっていくのです。
 万事、この上記の農場主武士たちの農地農村保全および拡大に対する強い欲望が、源頼朝の中世~徳川家康の江戸期にかけて、武士政権が日本列島を支配したと言えるわけであります。広大な領地を背景に、一族が繁栄すると日本各地に、また新たな領地を獲得し、割拠していくことになります。
 例えば、鎌倉幕府の事務長官というべき大江広元の一族子孫には、戦国期の中国地方を席捲した毛利元就がおり、また元就とほぼ同時期に活躍した北越の上杉謙信麾下の有力者・北条高広などもおり、「一文字三星」の家紋、大江広元の「広」や「元」という名前を共有する大江一族は各地に点在しています。
 大江広元と同じく源頼朝(鎌倉幕府樹立)の立役者の1人で、下総を本拠とした有力東国武士である千葉常胤(前掲の上総介広常と同族であり、大河ドラマでは岡本信人さんが好演されています)がいます。この千葉氏も広大な農地農村を背景して、一族が大いに栄え、戦国期には奥州で伊達政宗と雌雄を争った相馬氏、北陸越中国東部(新川郡)の武士として勢力を張った椎名氏は、本来、千葉常胤によって栄えた千葉一族を出自としているので、相馬・椎名氏の武士の多くは、一族の開祖的存在である千葉常胤の「胤」を通字としています。(例:相馬義胤や椎名康胤)
 戦国期は有名無名を問わず、多くの武士たちが華やかに活動した、正しく武士の最高潮でありましたが、本来は(先述のように)、中世期に興った武士団による農地農村に対する欲望が嚆矢となっており、その欲望を満たすためなら武士団は、徹底的にリアリズムを通し、盟友・宿敵などを構わず排除していきました。
 筆者が、この記事を書かせてもらっているのは2022年7月中旬ですが、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、大泉洋さん演じるカリスマ・源頼朝が急死(長い序曲が終了)したことで、これから鎌倉御家人たちの相剋が激化する頃合いですが、これも上記の武士の欲望を満たすために起こった史実であります。
 (以前の記事でも何度も紹介させて頂いておりますが)筆者が私淑する司馬遼太郎先生は、当時の武士団たちのことを『ピカレスク(悪漢小説)に似ている』(『街道をゆく 三浦半島記』)と書いておられますが、自分たちの欲望を満たすためなら他者の存在を顧みないという姿勢、恐るべきリアリズムを貫く、武士団たちは悪党=ピカレスクと呼ばれるに相応しい者共であります。
 武士リアリズム、ピカレスクが横溢した戦国期になると、武士の欲望を満たすために、より多くの相剋や裏切り例が数多あるのは周知の通りですが、中でも甲信地方を中心に覇権を確立した名門戦国大名・甲斐武田氏の滅亡(1582年)の経緯こそは、農場主武士の欲望(領地保全)を満たすためによって、発生した歴史的事件の1つというべきではないでしょうか。
 源頼朝の友軍的かつライバル関係にあった甲斐源氏本流の武田氏も本貫地である甲斐国各地に、一条氏・安田氏・加賀美氏・板垣氏・甘利氏といった同族を配することにより、土着豪族(武装農場主)たちの支配を強めた名実ともに甲斐武士団の棟梁であります。そして、武田氏は源平合戦(治承・寿永の内乱)では、源頼朝軍に加勢して、木曾義仲討伐や対平氏戦線で、甲斐源氏軍は活躍しています。そして、武田氏は源平合戦(治承・寿永の内乱)では、源頼朝軍に加勢して、木曾義仲討伐や対平氏戦線で、甲斐源氏軍は活躍しています。
 甲斐武士団の棟梁であるという立場は、室町期になっても揺るがず、甲斐国の守護大名を代々務め、戦国期なると一族や豪族の離反に遭って一時期衰退はしますが、武田氏18代当主・武田信直は奮闘の末に甲斐国の統一、戦国大名・武田氏の礎を築きます。この猛将・武田信直こそが、後の武田信虎であり、戦国最強武将とされる武田信玄(晴信)の父であります。
 武田信虎と嫡男であっら武田信玄が内政・軍事・外交に非凡な能力を発揮し、彼一代で武田氏を甲信・駿河・西上野などを領有する強大な戦国大名へと成長させたのは周知の通りでございます。特に、信玄が組織した甲斐武田軍は戦国最強軍団として、織田信長や徳川家康といった諸大名に畏怖されたことは有名です。
 その最強軍団・武田軍の中核を成す甲斐武士団も、本来は代々続く「農場主武士」(当時の国人領主・土豪)であり、自分たちの農地農村の保全とその拡大を欲する人々であります。そして、その武士団棟梁である武田信玄は、彼らの欲求を満たすために、内では治水灌漑や新田開発・鉱山経営に勤しみ国力を蓄え、外へは隣国の信濃や駿河へと軍を進め、新たな領地(農地農村)を獲得し、それらを戦功があった配下の甲斐武士団に恩賞として与えることにより、最強軍団・武田軍の結束を固めていったのです。
 そういう意味では、武田信玄が組織した武田軍は、中世鎌倉の源頼朝が東国武士団の領地安堵などを行い、滅ぼした平氏の旧領(平氏没官領)を彼らに給与し、武士政権を組織した経緯が似ている「中世的武士団」であります。
 勿論、この中世的武士団(農場主武士の集まり)を大軍として組織するのに苦心した戦国大名(各地方の武士団の棟梁)は、武田信玄のみではなく、信玄の宿敵であった越後国の上杉謙信、西国の毛利元就や島津義久なども同類でありますが、その大名たちの中でも、信玄の組織力が傑出していたのは間違いなく、このことが当時から後世にかけて、彼をして戦国最強大名と謳われる所以でしょう。

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 傑物・武田信玄に従っている甲斐武士団たちも、信玄(お館様)に従っている限りは「自分たちの農地農村の領有権を護ってくれる上、新たな土地が貰える」という安心感があったからこそ、彼らも信玄を甲斐武士団の棟梁(戦国大名)として認め、戦地へ赴いたのであります。そして残念ながら、その甲斐武士団の欲望に、上手く答えられずに戦国大名・武田氏を滅亡させてしまったのが、武田信玄の四男・武田勝頼(旧名:諏訪勝頼)であります。
 1573年、武田信玄が病没すると、武田勝頼が事実上、甲斐武田氏を継承し、甲斐武士団の棟梁となります。武田勝頼の武田家継承失敗原因の詳細については、筆者が以前に拙作記事(https://rekan.jp/2636/)などがございますので、今記事では割愛させて頂き、要点のみを書かせて頂くと、勝頼は父・武田信玄が生涯かけて創り上げた最強・甲斐武田家臣団の中核を成す甲斐武士団から、『自分たちの農地農村を護ってくれる棟梁の器にあらず』というように、源頼朝以来、武家政権の根幹たる所領安堵を与える棟梁に必要な信用を失ったためであります。
 1582年、甲斐国内に拠る農場主武士たちの信用を失ってしまった武田勝頼率いる甲斐武田氏は、あっけなく滅亡の道を辿ります。先ず南信濃を拠点とし、武田氏の親族衆の1人であった豪族・「木曾義昌(正室は武田信玄の三女、勝頼の異母妹)」、更に甲斐国南部の河内地域/下山館を拠点とする甲斐武田氏の一族であり重鎮であった「穴山信君(穴山梅雪、信玄の甥にして娘婿)」、そして甲斐国東部の郡内地域/岩殿城を治める有力豪族「小山田信茂」たちの裏切りに遭い、名門戦国大名・甲斐武田氏は滅亡。武田勝頼も妻子や残った僅かな近臣たち共に、天目山にて自害しました。
 上記の木曾義昌・穴山信君・小山田信茂といった3つの有力な武田家臣団(農場主武士団)が、盟主の甲斐武田氏を裏切った理由は、やはり『自分たちの領地保全のため』という、全国各地に無数に点在していた農場主武士たちも有していた露骨なリアリズムと欲望、ピカレスク的な処世術にあります。木曾や小山田たちからしてみれば、外敵(この場合は織田信長や徳川家康)から領地保有権を護ってくれる力を失った武田勝頼には、これ以上仕えることは不可能であったのです。
 江戸期になると、儒教思想(特に朱子学)が広まり、武士たるもの己が仕える主君大名に忠義を尽くす。という滅私奉公の形式武士道が主流となりますが、中世から興った武士の世(鎌倉期)~戦国期の武士団の中で横溢していたのは、(何度も書いているように)、『自分たちの領地/農地農村を護ってくれる人こそ棟梁。それが出来ない愚物は切り捨てる』という、現代の倫理観から見れば恐るべきリアリズム思想でした。それが、農場主武士たち(東国武士団/鎌倉御家人)が創設した中世の武士政権であり、その所属者なら誰もが知っている基本的なルールであったのです。
 鎌倉期~戦国期にかけて、無数に登場した各地の武装農場主たちの欲望を叶えることができた人物が、「武士の棟梁(戦国大名)」として歓迎されたのであり、その成功的代表者たちが武田信玄であり、毛利元就、北条氏康といった誰もが知る有名戦国群雄たちだったのです。
 その群雄たちの最終勝者で、天下人となった徳川家康も、先輩である織田信長や豊臣秀吉たちの兵農分離(刀狩りや太閤検地)政策を上手く活かし、それまで農地農村を根本としていたピカレスクに富んだ農場主武士団を解体し、事実上は徳川幕府および大名に仕える農地農村とは縁遠い城下町定住の忠義心厚い「サラリーマン武士」として変貌させていったのです。尤も、皆様よくご存知のように、城下町に軟禁状態にされた挙句、官僚化された武士たちではありましたが、表面上は農場地主体裁、即ち石高制が採られており、その数値の多寡が、江戸期を通じて全武士のステータスとなっていました。
 そして先述のように、表面上の農場地主武士/知行取り武士が、蔵米取り武士(下級武士)よりも格調高いと重んじられ、蔵米取りが知行取りに転身することは、大変な出世である、と思われていました。それほど、武士の原型であった一村の地主(武装農場主)であることが、江戸期の武士たちでも名誉であると思われていた証であります。
 武士の名誉(農場地主への憧れ)を立てつつ、内実、武士たちを農地農村支配から切り離し、完全幕府および諸藩専属の官僚武士にする、という『元来の武士の欲望(領地安堵)をシステム化』してしまったことが徳川家康という政治力の高さかもしれません。来年2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、上記のことを描かれることは無いと思いますが、晩年の徳川家康は、各大名の戦力源となる武装農場主たちの存在を否定することにより、徳川政権の安定化を図ったことは事実であります。

 以上のように、中世(12世紀後半)に勃興したとされる東国武士団は、本来『農場主武士/武装農場主』であり、その自分たちの農地農村の保有を護るためには、露骨なほどのリアリズムを発揮することにより、他家とあるいは和し、あるいは戦って相手を討滅してきたのであります。
 正に血塗られた世界であり、今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公である北条義時をはじめとする鎌倉御家人(東国武士団)たちが、仲間内で鎌倉政権主導権争いを巡り、骨肉相食んだ根本的理由は、自分たちの利権=農地農村の保有、その拡大があったからであります。
 大河ドラマ内では、歌舞伎役者である坂東彌十郎さんが、身内を何よりも大切にする好々爺武士の北条時政を好演されていますが、その時政が鎌倉幕府執権となり、武家政権の主導者となった後、自身の娘婿である武蔵の有力御家人であった畠山重忠(これも中川大志さんが好演されています)を、謀殺した原因は、相模国の支配権を確立した時政が、今度は重忠が主導する武蔵国の支配確立を企図したことにより、時政と重忠が対立。結果、畠山重忠が滅んだのであります。
 この北条時政と畠山重忠の諍いの主因も、(よく動物世界でもよくあるように)、自分たちの縄張り、領地・農地農村の領有権の争いであり、農地農村の地主たちは、自分たちの農地農村を護りつつも、他方では、人の土地を侵し、一反でも広く多くの農地を得ようする欲得によって、相手を陥れたり、殺したりしたのであります。
 この欲得によって起こる殺伐とした風潮も、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の鎌倉期から次回の同ドラマ『どうする家康』の近世初期にかけて、武士の世の特徴であります。武士が興った鎌倉期、殺伐とした武士の世を安定化させた江戸初期、この極端なる時代背景を、2年掛かりの大河ドラマで、どのように描かれるのか?一大河ドラマファンである筆者は、楽しみにしています。

 前記に、鎌倉幕府成立後の北条時政など東国武士(鎌倉御家人)たちは欲得によって、仲間内の土地を侵し、一反でも多くの農地を得ようとした、という意味合いのことを書かせて頂きましたが、当時は既に、かつての敵対勢力であった平氏や奥州藤原氏は既に滅んでいるので、戦で手柄を立てて、新たな領地を恩賞してもらう機会が無くなったので、仲間内で滅ぼし合って、その農地農村を強奪したことになります。
 それが東国武士団内で頻繁に起こった内訌(領地争い)は、西暦1200年から約20年間の鎌倉初期でありますが、その頃になると、東国武士団勢力圏である関東・東北・東海、そして西日本の一部では、新たに農地開拓するほどの土地の余裕が無かったことが考えられ、その地理的限界による理由も、武士団同士の争いに拍車をかけたのでしょう。また、当時の農具や開墾技術では開拓能力も決して高いものではなかったと思うので、開拓済みの他人の農地を暴力的に横取りする方が、一番手っ取り早い方法でもあったでしょう。
 漫画やアニメでお馴染みの「ドラえもん」の登場人物の1人である通称ジャイアンこと剛田武君の有名な名言?の1つに、「オレの物はオレの物、お前の物もオレの物」というものがありますが、正しく東国武士団が躍動した時期(鎌倉幕府成立後)は、ジャイアンのこの言葉が、初めて横溢した時だったでしょう。それが戦国期まで続きます。

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 元来、農民や農地を支配し、農地開拓をも生業とする農場主であった東国武士(鎌倉御家人)たちさえ、先述のように地理的条件によって、新たな農地開拓が頭打ち状態になってしまいました。しかし、鎌倉中期から室町初期にかけて、武士層が増加してゆくことになるのであります。
 敢えて源頼朝、その後の鎌倉幕府の公認の下、農地農村支配を一任された武士団(御家人たち)を正規武士(北条や三浦、足利たち)とするならば、それに対して、必ずしも農地農村に拠らない『非正規武士層』という存在が、時代が経つことによって歴史の表舞台に登場するようになります。
 この非正規武士たちが、『悪党』とよばれるようになり、農地農村を活動拠点としない(鎌倉御家人からすれば)アウトロー的な武士たちであります。この好例的存在が、鎌倉幕府倒幕、南北朝争乱期の『楠木正成』『名和長年』といった共に南朝方(後醍醐天皇側)の主力武将として活躍した人物たちであります。
 楠木正成たちも、決して農地農村を軽視した訳ではないのですが、彼が主眼としたのは『商業流通』でした。即ち、農場主武士の連合政府であった鎌倉幕府側から『悪党』と卑下される楠木正成や名和長年は、『商業系武士団』の一員であったのです。次回は、その商業系武士団について迫ってゆきたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎
日本の武士と西洋の騎士が勃興した『中世』という時代
織田信長が優れた経済感覚を持てた理由

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