日本の武士と西洋の騎士が勃興した『中世』という時代

 皆様よくご存知のように、今年のNHK大河ドラマは鎌倉幕府、ひいては長きにわたる武士の世を創設に尽力した北条義時をはじめとする坂東武士/鎌倉御家人(東国武士団)を主人公した『鎌倉殿の13人』(作:三谷幸喜先生)であります。
 『予測不能なエンターテインメント』を主題として、ヒットメーカー三谷幸喜先生が紡ぎ出す源頼朝や坂東武士団の群像劇(大泉洋さん演じる源頼朝が、特くに魅力的であります)などが、大いに好評のこともあって、今年はまさしく鎌倉期、日本中世史が脚光を浴びています。
 街の書店などでも、大河ドラマ主人公の北条義時と北条一族などの関連書籍が店頭に立ち並び、静岡県伊豆の国市といった北条義時の所縁の地でそれに因んだイベントが開催される一方、インターネット検索サイトGoogleで、ほうじょうと打ち込むと検索候補の筆頭に北条義時、次いで北条政子が挙がっています。正しく北条一色といった感じでありますが、これらの事例があるからにして、やはり世間では日本中世史のはじまりである鎌倉時代が注目されているのです。
 これも三谷幸喜先生の手による大河ドラマ効果が要因になっていることは間違いないと思うのですが、これは飽くまでも今年に発生した現象であって、以前より律令制が崩壊し、封建制が誕生した日本史の重要転換点である日本中世史、鎌倉武士団の台頭期をご研究されています学者先生方が多くいらっしゃいます。

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 『鎌倉殿の13人』の時代考証をご担当されておられます歴史学者・坂井孝一先生(創価大学文学部教授)をはじめ、同じく歴史学者・本郷和人先生(東京大学史料編纂所教授)も、日本中世史をメインにご研究されている代表的な先生方であります。また少し前の昭和・平成では、本郷和人先生の恩師であられた故・石井進先生(東京大学名誉教授)、故・永原慶二先生(一橋大学名誉教授)も、日本中世史のご研究に大きな足跡を遺された方々であります。
 日本中世史(特に荘園制や鎌倉期)などのご研究で多大な功績を挙げられている先生方の中で、筆者は、特に本郷和人先生を私淑し、よく本郷先生の書籍も読ませて頂いているのですが、その著作の1つに『さかのぼり日本史 なぜ武士は生まれたのか』(文春文庫)があります。
 この書籍は、2011年NHKEテレで放送されていた歴史教養番組『さかのぼり日本史』内で放送された「室町・鎌倉 “武士の世”の幕開け」をベースとした内容となっておりますが、その「はじめに」の項で、本郷和人先生は『中世は武士の時代といっても過言ではありません。(以下、略)』とお書きになれています。
 本郷和人先生が言われる『日本中世が武士の時代である』であったなら、当時の西洋史も似ている点があります。同じ12世紀後半の東西ヨーロッパを注目してみると、西洋版武士というべき、馬上戦闘員『騎士(ナイト/Knight)』の隆盛期であります。                 
 12世紀後半のイングランド(現在のイギリス)では、「Gentleman(ジェントルマン/紳士)」の語源となった中下級騎士=農場主の『Gently/ジェントリ)』がイングランド本島に、割拠した時期であり、他のヨーロッパ諸国でも多くの騎士が躍動していました。
 その諸国の中でも、同時期の東国武士団の存在と酷似しているのが、西欧のプロセイン(現在のドイツ、当時のブランデンブルク辺境伯領)でした。
 当時のプロセインは、神聖ローマ帝国に忠誠を誓う屈強な騎士たちで形成されていた「ドイツ騎士団(チュートン騎士団とも)」が台頭する時期であり、それに所縁のある騎士たちは、ドイツに流れるエルベ川以東の未開地を農地開拓し、根を下ろすことにより、村落貴族『ユンカー/(ドイツ語でJunker)』として勢力を蓄え、西洋史の表舞台に登場しするようになりました。
 ドイツ騎士/村落貴族、即ちユンカー(直訳:貴族の若旦那)たちは自分が支配する「領地(騎士領とも)」に城館を構えて、足下に農民(農奴)を抱え、周辺地域を農地開拓していったのであります。このユンカーによる支配体制を世界史用語で『農場領主制(ドイツ語:グーツヘルシャフト/Gutsherrschaft、』(日本史では『在地領主制』)、その農場領主層が集結して構成された半自立勢力が『領邦国家』とも言われます。そして、いざ遠征となればユンカーたちは、自らは武装した騎士となり、農村の若者たちを兵卒として従軍させるのであります。
 上記の西欧におけるユンカー(村落貴族)たちの姿を見てみると、文化や地理が全く異にしている同時期に極東の島国である日本国内で台頭し始めた『東国武士団/坂東武士団』の存在に酷似していることに驚嘆することを禁じ得えません。かつて司馬遼太郎先生は、自著『街道をゆく42 三浦半島記』(朝日文芸文庫)で、以下のように書いておられます。

 世界史的にいえば、日本史はアジアに似ず、むしろその封建制の歴史において、西洋史に似ている。佐原十郎義連や和田小太郎義盛という十二世紀の人達が、もし15世紀~19世紀ごろのドイツに旅行したとしても、いまの日本人よりも、その社会に異和感を感じなかったに相違ない。』
 当時のドイツには、佐原・和田のような村落貴族(ユンカー)が多数いた。ユンカーたちは、平素は大農場を経営し、王のためにいざというときには、村内から従卒をひきつれ、戦いに参加した』

(以上、『街道をゆく42 三浦半島記』、「三浦大介」文中より)

 司馬遼太郎先生の上記に、敢えて筆者なりに以下のように、日本の「東国武士団」と西欧の『ユンカー』の共通点を箇条書きで列挙させて頂くと以下の通りです。

【その以前まで未開(鄙びた)の地を開発するために、他所からの『開拓入植者たち』である】
 
 当時の日本・ドイツ共に、文化発展度は、いわゆる「西高東低」であり、西部は富裕なる貴族層が間接的に農村や農奴を支配する「荘園制」(ドイツ語:グルントヘルシャフト)が時代の主流であり、その時代的潮流に乗れなかった下層部の人々が、未開なる東部へ入植開拓を開始。日本では、これらのリーダー的存在が北条や三浦、千葉といった東国武士団(武装農場主)であり、ドイツにおいては東方領主と呼ばれた騎士団でした。
 因みに、中世における両国の東西境界線の存在についてであります。平氏討伐に出陣した八田知家といった御家人(東国武士)たちが、京都朝廷から官位を下賜された時、御家人の棟梁・源頼朝が無断任官した御家人たちを罵倒する有名な書状があります。その文中で『お前らは墨俣川から東へ入ってくるな!来れば斬首だ!』(出典:吾妻鏡)と激怒していることでわかるように、当時の日本の東西境界線は、美濃国に流れる『墨俣川』として考えられていたのです。そして、当時のドイツ、即ちプロセインの墨俣川的存在が『エルベ川』であり、近代の19世紀までこの河川が東西ヨーロッパの境界線を果たすことになります。

【普段は自分の領地で在住し、隷属する農民を使役して農業経営や開拓に勤しむ】
 
 日本では、東国武士団らが西国政権(京都朝廷や平氏)より派遣されてくる国司(受領とも。県知事クラス)から重税や課役によって負担を強いられている状態で、この武士団の不満が源頼朝を推し立てる武家政権の確立という日本史の大転換点となるに至ります。一方のドイツでは、ユンカーこと東方領主たちが営々と農地を拡張することに勤しみ、後の15世紀になると、産業革命で西欧諸国の都市部で穀物需要が高まることで、ユンカーたちは生産した穀物を西欧へ輸出することで、莫大な利益を得ることになります。これによりユンカーは益々、力を得ることになり、より強固な領地支配体制(農場領主制)を敷いてゆくようになります。

【各々の領主が、それぞれの家紋を有し、領有した地名を家名とする】
 
 江戸末期から明治初期に活躍した画家・歌川芳員の作品の1つに「鎌倉大評定」という大作があります。この絵には鎌倉殿の源頼朝、その舎弟である源範頼や源義経といった源氏一門をはじめ北条時政・千葉常胤・畠山重忠・和田義盛・三浦義澄といった多くの有力御家人(生え抜きの東国武士団)や幕府文官である大江広元も登場しており、それらの殆ど人物が紋付袴姿をしているのが確認できます。
 この鎌倉大評定の画を妄信するわけではありませんが、先述のように北条・三浦といった東国武士たちが紋付袴姿なので、これを眺めていると各地の村落貴族であった東国武士団(御家人)が各々家紋を有していたことが、よくわかります。その数例を採らせて頂くと、鎌倉幕府の行政長官と言うべき大江広元は、有名な「一文字三星」。大江氏の子孫に当たる戦国期の毛利元就の毛利氏も同様の家紋でお馴染みであります。そして、北条時政・北条義時の北条氏の家紋も、また有名な「三つ鱗」であり、坂東平氏一族の末裔を自称する北条氏は、平氏軍の赤旗をベースにした「赤地三つ鱗」が周知の通りです。
 ドイツのユンカーたちも各々家紋(紋章/ワッペン)を有しており、1701年にプロセイン王国(後のドイツ帝国)を樹立することになる「ホーエンツォレルン家」(11世紀創設)の家紋は、「ブレッケ(Bracke)」という犬種をメインとしたものであり、またユンカー出身にして、ドイツ帝国における「鉄血宰相」の異名で名高いオットー・フォン・ビスマルクのビスマルク家の家紋は、「黒鷲と赤鷲」を基調とした模様となっています。他のユンカーの家紋も、ライオンや馬、鳥類といった動物系
 上記のように、東国武士団を含め、後の戦国大名といった日本武士の家紋は、主に「植物(花卉や草木あるいは果実)」が用いられるのに対し、ドイツのユンカーの家紋(紋章)は、ライオンや鷲といった勇ましい「動物」が主流であります。
 「名字(苗字)」についても東国武士団とユンカーの間で共通点があり、それは領有していた地名(荘園名・郡名)を冠していたということであります。
 
 『武士団は、その一人一人が、その所領する村落の長だったと考えていい。』(『街道をゆく42 三浦半島記』文中より)

 上記のように、司馬遼太郎先生が書いておられる通り、北条義時の北条は代々、伊豆国北部に所在する田方郡北条(現:伊豆の国市)を本貫とする豪族であったので、北条を名とし、義時の好敵手である三浦義村は、相模の三浦半島(旧名:御浦。現在の横須賀市一帯)に拠っていたので、三浦を名乗り、義村の従兄に当たる和田義盛をはじめ彼らの叔父に当たる佐原義連といった三浦一族も、各々領有した地名を名字としています。和田氏の本貫は三浦郡和田(三浦市初声町和田)であり、佐原氏も本貫地は三浦本家の本拠地・衣笠城近隣の佐原(横須賀市佐原)でした。
 ドイツのユンカーも同様であり、前掲のホーエンツォレルン家は、南ドイツのシュヴァーベン地方にあるホーエンツォレルン城を本拠地としていたので、それを名字としているのであります。
 『雲のなかで、真下の草上の一点を自分の領域だとうたいつづけるヒバリのように、苗字はこの時代の武士にとって、所領の誇示でもあった』ということも、司馬遼太郎先生は前掲の『街道をゆく 三浦半島記』で書いておられますが、これは当時のドイツ(プロセイン)に拠ったユンカーたちにも同様のことであり、彼らもまた自ら開拓した本貫地名を名乗ることを誇りとしていたのであります。

【有事の際は、自らは鎧兜を身に着け馬上戦闘員(騎馬武者/騎士)となり、支配農村から複数の若者を率いて出撃する】
 
 東西の中世武人は普段、自身が領有する農村経営に勤しみ、有事の際は、足下の郎党(若党)を率いて戦いに赴きました。即ち日本の東国武士団(鎌倉御家人たち)は軍備を整え「いざ、鎌倉!」の合言葉により、忠誠を誓う鎌倉殿(鎌倉幕府)の下へ馳せ参じ、西洋のユンカーは騎士姿となり、彼らの主上的存在である神聖ローマ帝国、これが滅亡後はプロセイン王国皇帝の下へ駆けつけました。
 東国武士団、ユンカーが自身の命と財力を賭して、各々の主君の軍事招集に応じた理由は只一点。自分たちの領有する農村を護るためでした。中世における東西の武人は、正に『一所懸命』を主題に生きた人々だったのです。

【信仰心厚く、戦いに当たっては名誉や規律・礼節を重んじる「潔さ」がある一方で、自身や同族の権益保全に強い執着心を持つ】
 
 時にはその執着心が起因となり、保持する武力を用いて、他者に対して凄まじい収奪やその他の残虐行為を行うこともする悪漢的存在(ピカレスク)でもあります。そして、後世まで両者が属する民族間(国家)の思想体系に大きな影響を与える道理を確立するほど歴史的存在になってゆきます。
 例えば、日本中世初期の東国武士団では、正々堂々と一騎打ちで相手と渡り合う「弓馬道」が確立され、これに勃興した鎌倉仏教(禅宗や浄土思想)が加味され、後の室町期に花開いた文化期を経て、江戸期の武家社会に教学とされた儒教思想/朱子学が加わって完全昇華、忠誠や信義を最も重んじる『武士道精神』が誕生。これが、現代にも続く日本文化や風習の形成に大きな部位を占めることになるのは周知の通りでございます。
 西洋のユンカー、即ち騎士兼村落貴族の間でも当初、勇敢なる「一騎打ち(馬上槍試合=ジョスト)」を重んじる堂々たる戦い方が最上とされ、これにキリスト教思想(礼節や博愛などを重んじる精神)が加わり、『騎士道精神』として西洋国家群の思想体系に、大きな影響を与えることになります。

 以上、5点の共通点が両者間で挙げられます。先述のように、日本の東国武士団と西洋のユンカーこと騎士、共に11世紀~12世紀後半にかけて誕生、15世紀以降には完全成長した勢力であり、これが正しく『中世』であります。
 東ドイツ(エルベ川以東)を拠点とする中世騎士と村落貴族を兼任するユンカーの子孫たち、即ちプロセイン王国の貴族たちは、16世紀の大航海時代(日本では戦国期)頃になると、西欧のオランダ・ポルトガル・イングランドといった巨大海洋国家の都市部が発展することにより、同地域では穀物需要が急激に高まることにより、ユンカーたちが生産した穀物が大いに売れるようになり、その利潤を以ってユンカーたちは、より強大な勢力を握るようになっていきます。
 上記の穀物取引によって勢力を蓄えたユンカーたちは、18世紀(日本:江戸中期)になるとプロセイン王国政権の中枢を担う重要的存在であり続け、絶対王政の象徴的存在である強権的なプロセイン王国でも、ユンカー自身らが所有する農村・農地・農民を完全支配する農場領主制(グーツヘルシャフト)を確立させたのであります。またプロセイン王国の軍事を担う将校は、ユンカー出身の子弟ら(相続権が無い次男・三男など)が就任することが多く、1806年頃の王国将校は約8000人存在したと言われていますが、その中の9割以上がユンカー層の出身者であったと言われています。
 18世紀の西洋では、ユンカーのもう1つの顔であった騎士の時代は、既に遺物化となっており、歩兵・騎兵・砲兵、それらの部隊を束ねる軍事将校などが活躍する所謂、近代軍隊の時代が到来していますが、ユンカーの子弟たちはプロセイン王国の近代軍隊の指揮官として、同王国の軍事部門に君臨し続けたのであります。
 プロセインのユンカー(農場領主制/騎士領制)は、西欧諸国の穀物価格暴落という経済的原因によって徐々に崩壊することになり、更に19世紀彗星の如く出現したフランスの軍事的天才・ナポレオン=ボナパルト(ナポレオン1世)が率いる大軍が、プロセイン王国を侵略した外圧事情も重なり、ユンカー勢力は、更に減退、その存在も形骸化することになります。
 しかしユンカーの存在が完全消滅することなく、近現代のドイツ帝国、或いはドイツ・ナチス政権でもユンカー身分は、旧態依然の代物として評価されつつも、一方ではドイツ国民からは尊敬的存在として容認されていたようです。事実、先述のドイツ帝国の宰相となり「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクも生涯、自身がユンカー・村落貴族を出自とすることに誇りをも持っていました。

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 11世紀~13世紀、即ち『中世』と呼ばれる当時、ヨーロッパでは未開の地であったプロセイン/ドイツを拠点とする騎士・村落貴族でもあるユンカーの誕生および彼らの経緯、即ち村落貴族から勃興、徐々に力を付け、遂にはプロセイン政権運営(特に軍事部門を独占)の担い手になってゆくという変貌ぶりを見ていると、同時期にアジア極東の中世日本、厳密に言えば「東夷/ド田舎」と京都朝廷から卑下されていた坂東地方で誕生した東国武士団、そして、彼らが源頼朝を擁して築き上げた武士政権と似ていることが、とても不思議であります。
 東国武士団/鎌倉御家人たちが、初めて築いた武士の世が、長らく日本史作り手の中心となるのは周知の通りであり、京都に初めて武士政権(室町幕府)を築く足利尊氏も勿論武士であるだけでなく、彼は北関東に勢力を持つ東国武士団の末裔の1人でありました。
 その後の戦国期に日本全土で躍動した織田信長や毛利元就といった戦国武将も武士、戦乱を平らげ江戸政権を築いた徳川家康も武士、そして江戸幕末期および明治維新から日露戦争における明治の約40年間で日本国家運営および啓蒙活動の中心的人物であったのも、やはり武士/旧士族層出身者であります。(尤も、江戸幕末や明治に活躍した武士の殆どは、下級層の武士たちでありましたが)
 西洋の武士というべき騎士・村落貴族であるプロセインのユンカー、日本の武士の元祖的存在である騎馬武者・武装農場主であった東国武士団。共に、田舎の開拓団身分から出発し、15世紀以降は王国あるいは政権運営の中心となり歴史を動かすキーパーソンになっていたことを考えることは面白いことであり、しかも両者が誕生し、大きく躍動したのが11世紀~13世紀の『中世』という時代であったのです。

(寄稿)鶏肋太郎

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