江戸幕藩体制を著した日本地図を見た拙者の歴史雑感「下剋上/新時代の開拓者」について思うこと

 先日、気分転換で筆者の姉が旅行のお土産(確か箱根旅行)で買って来てくれた『江戸(嘉永)時代 大名紋章城郭図』(発行元:望月アート企画室)を眺めていました。
 こういう余暇が何とも楽しい一時でもあるものですが、上記の代物は、日本地図の中に、北は蝦夷の松前藩・天領の函館(五稜郭)から南は薩摩藩といった全国諸藩の「藩主名」・「官職名(しかも廃藩置県後の爵位も表記)」・「石高値」・「居城名」が描かれているのは勿論、五街道や宿場町名までも事細かに網羅されているという歴史愛好者にとっては、正しく垂涎物(或いは必需品)な逸品となっています。

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 嘉永期(19世紀中期)と言えば、黒船来航などが好例のように諸外国からの外圧が激しく、国内には排外主義(いわゆる尊王攘夷)と開国派の激しい対立により、武家政権の棟梁たる江戸幕府の命旦夕に迫る「幕末期」ではありますが、一方で全国各地には、(財政破綻寸前ながらも)、200をゆうに越す大小の諸藩が生存しており、言うなれば、この江戸幕末期は徳川幕府・全国諸大名を余すことなく鑑賞できる「究極体の武家政権ショーウィンドー(Show Window)」と言えるでしょう。
 費用が掛からないウィンドーショッピング感覚を楽しむような気持ちで、武家政権末期のガラス張りケース的な紙媒体である前掲の「江戸時代 大名紋章城郭図」内に描かれている諸大名連中を凝視してみると、国土狭い上、山岳地帯が多く、開発可能な平野部が少ない日本列島内に、よくぞこれだけの藩(ある意味での小国家)が並立できたものであると感心すると同時に、江戸期までに成立した殆どの藩(大名家)というのは、戦国期から織豊期(安土桃山期)・江戸初期にかけて台頭した武家勢力が圧倒的に多く存在することに気付きます。
 戦国期の武家社会を大別すると、有名無実ながらも武家政権の棟梁であった「⓵室町幕府(足利将軍家)」をはじめ、各地方の大規模武士勢力である「⓶戦国大名」、それに従属する中小規模の武士勢力である「⓷国衆」「⓸土豪/地侍」などが存在しました。そして、争乱激しい戦国期を生き残った⓶~⓸の武家勢力が、結果的に⓵の徳川幕府、各地の近世大名(藩閥)として江戸幕藩体制を構成してゆくことになります。
 ⓵の室町幕府の代表者は、代々足利将軍家であることは些かも揺らがないのですが、各地の国々に割拠した⓶戦国大名についての出自(興った起源)や家柄は、家々によって千差万別であり、それらを筆者なりに「等級」で振り分けさせて頂くと以下のようになります。

☆超1級:室町幕府(足利将軍家):権力は無きに等しいながらも、武家政権の最大権威。

・第1級:「守護大名」から独立勢力の戦国大名へ転身した勢力。

・第2級:「守護代」から戦国大名へ上昇。

・第3級:守護代の「家来筋(陪臣)」から下剋上によって戦国大名となる。

・準3級:一郡(あるいは数郡)を領有する「国衆」の連合体(国衆一揆)となり戦国大名に成り上がる。

・第4級:一村・一郷を有する国衆より小規模な武家とされる「土豪」「地侍」を出自とし、大名家や国衆に出仕することにより、累進を重ね戦国大名となる。

 超1級は詳細な説明不要の全国武家勢力の棟梁として、京都に本拠を置いていた「足利将軍家/室町幕府」であります。武家勢力の中で家柄(しかも源氏の嫡流)は極限であります。
 室町幕府は、初代・足利尊氏(元は北関東の有力御家人)が開闢して以来、唯我独尊には程遠い不安定な武家政権であり、3代足利義満の代まで足利一門衆や有力な守護大名の内紛や対立、南朝方との緊張関係に苦悩させられています。
 周知の通り8代将軍・足利義政の代になると、管領家・有力守護大名同士の対立が再度激化することに勃発した「応仁・文明の乱」の長期化により、足利将軍家には既に武威が無くなっていることが天下に晒され、室町幕府はより弱体化。これにより日本 各地の守護大名・守護代、その傘下の中小の武家勢力が台頭することにより、戦国期を迎えることになります。
 第1級の武家勢力の家柄は、室町幕府(古くは鎌倉幕府)からその国の武家勢力の長として正式に任命された「守護大名」を出自としながらも、親玉である幕府衰退に同伴せず、混乱期を乗り切り、独立独歩(各地方の武家の棟梁)の戦国大名に転身した勢力です。その代表例が以下の通りとなります。

陸奥国の「伊達氏(伊達稙宗が陸奥守護を室町幕府に強請。代表武将:伊達晴宗・伊達輝宗)」

常陸国の「佐竹氏(常陸源氏。佐竹義昭・佐竹義重)」

甲斐国の「武田氏(甲斐源氏。武田信虎・武田信玄)」

駿河国の「今川氏(足利将軍家の連枝。今川義元)」

近江国の「佐々木氏(六角氏、近江源氏。佐々木義賢)」

周防国の「大内氏(大内義興・大内義隆)」

豊後国の「大友氏(大友宗麟・大友義統)」

薩摩国の「島津氏(島津貴久・島津義久)」

 上記の大名家は、戦国期に守護大名から戦国大名へと転身し、各地方で覇を唱えるほどの有力勢力になった成功例と言えるでしょうが、他の殆どの守護大名は室町幕府の衰亡の煽りを受けて衰退し、自身より下級武家層に実権を奪われる憂き目に遭っています。(例:越後守護の上杉氏、尾張・越前の斯波氏、近江・山陰の京極氏、北九州の少弐氏など)

 第2級の家柄は、上記の守護大名の輔弼役(ナンバー2)の「守護代」から下剋上により第1級の守護大名を追って実権を掌握し、戦国大名に成り上がった勢力です。その好例が以下の通りです。

越後国の「長尾氏(長尾為景・長尾景虎(後の上杉謙信))」

尾張国の「織田氏(清洲織田家・岩倉織田家。因みに織田信長は清州織田家の分家・織田弾正忠家の出身)」

越前国の「朝倉氏(朝倉孝景・朝倉義景)」

備前国の「浦上氏(浦上宗景)」

阿波国の「三好氏(三好長慶・三好長継)」

出雲国の「尼子氏(尼子経久・尼子晴久)」

 室町幕府に任命されていた守護大名の多くは、幕府への出仕のため在京していために、自領国の統治は代官、即ち「守護代」に一任していました。
 本国を留守にしている守護大名に代わって、領国を統治している守護代は国内に割拠する「在国衆:国人や武士団」との関係が深める機会が多いことにより統治力を高めるようになり、守護代傘下の在国衆も馴染みの薄い名目上の棟梁・守護大名家よりも、常に領国に在住している守護代の方を事実上の棟梁として仰ぐことになってゆきました。
 応仁の乱後に、京都・室町幕府が大混乱になると、それまで京都に詰めていた守護大名たちは、各々の領国に帰国しますが、自分の統治権はすっかり代官であった守護代に取って代わられ、大名たちは有名無実なる旗頭(傀儡化)にされてしまう憂き目に遭うことになります。
 その中でも、越後守護代の惣領家的存在の「府中長尾氏(旧:三条長尾氏)」の主宰者である長尾為景(上杉謙信の実父)は、越後守護大名であった上杉氏(関東管領上杉氏の分家)に対して下剋上を行い越後国内での支配権を高める一方、京都朝廷や室町幕府との外政能力も発揮し、朝廷からは「紺地色の日の丸」の旗、幕府からは守護大名と同等の格式である「白傘袋・毛氈鞍覆・塗輿」の使用許可を得ることに成功。長尾氏の家格上昇=越後支配の大義名分獲得に努め、戦国大名・越後長尾氏としての礎を築いています。

 上記の長尾為景が下剋上のために越後国内紛争での勝利や中央政権である京都朝廷での外交の展開を可能にしたのは、為景が当時の交易ルートであった日本海航路の要衝であった港湾都市(直江津や柏崎)を支配し、豊かな経済力を有していたのが要因とされています。即ち、長尾為景、またはその子息である長尾景虎(上杉謙信)は、地下人=庶民身分が生業としている『農商工業』の力の源泉、経済力を握っていたからこそ、第2級の家柄・守護代から戦国大名(事実上の越後国主)へと上昇できたと言えるでしょう。

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 15世紀後半~16世紀初頭という時期は、超1級の室町幕府(足利将軍家)、それに次ぐ第1級の守護大名たち武家権門勢力にとっては内紛騒動によって権力を著しく減退、下級武士層に下剋上をされる受難の時期でした。
 しかし、一方で級外存在である庶民・地下人が生業とする農商工業層では、鉄農具などの発展普及により農業生産力が上昇、商工業面でも中国大陸との貿易で堺・敦賀・赤間関(下関)・博多など港湾都市が各地方で発展。大陸貿易における筆頭輸出品目であった刀剣が鍛冶村で大量生産(数刀=かずかたな)されることにより、産業技術面も鍛えられるようになります。この培われた優れた戦国期日本の製鉄業が、後に世界最高水準の鉄砲製造技術力の礎となります。
 当時の産業技術の話題に傾いてしまいましたが、要は室町後期というのは、第1次産業(農業)と第2次産業(商工業・鉱業)、第3次産業(馬借など流通サービス)、全産業において著しい発展を遂げた技術革新の時期であり、その社会的風潮に相乗する形で、農民・商人・工業者など下層民(隆慶一郎氏原作の影武者徳川家康に言えば「草の者たち」)が力と上級階級に対しての反骨心を大いに養ったのです。そして、室町幕府・守護大名・守護代のように、下層民を間接的に支配しているような存在よりも、力を付けていた民百姓を直に支配している村・郷・郡の親方たち、「地侍」・「土豪」・「国衆」といった中小の武家勢力も戦国の混乱期に台頭するようになってゆくのです。
 名門の武家であった守護大名、それに連なる守護代などが下の下に取って代わられる下剋上というのは、武家の中央政権たる室町幕府が動乱により衰退したのも原因の1つですが、それと同時に力を付けてきた下層民、その直接支配勢力であった下級武家の地侍・国衆が、上級の武家を食い破るほどの底力を持つようになっていたことも、戦国期=下剋上という社会現象が具現化されたのです。
 その下級武家勢力である3点勢力?である地侍・土豪・国衆から身を興し、戦国大名として下剋上を果たしたのは、肥前国の龍造寺隆信(肥前龍造寺氏)、安芸国の毛利元就(安芸毛利氏)、土佐国の長宗我部元親(土佐国長宗我部氏)、信濃国の真田昌幸(信州真田氏)などが代表例と言えるでしょうが、一大名身分を越え、遂には戦国期最期の勝利者・天下人まで昇り詰めたのが、徳川家康の三河徳川氏であります。
 江戸幕藩体制の主導者であり200余諸侯の君臨者にして、260年という世界史上稀にみる長期政権を築いた『徳川氏(旧姓:三河松平氏)』自体が、周知の通り、三河国西部を拠点とした「国衆(中小武家勢力)」であり、鎌倉幕府や室町幕府から公認されている「武家(守護大名や地頭職)」を出自とする武家ではなく、幕府権威衰退・各地の守護大名減退などの戦乱期に台頭した新興武家でした。尤も松平氏時代に、室町幕府の要職・政所執事を歴任した伊勢氏の被官身分を運上金によって手に入れ、松平氏の家格上昇に努めています。

 天下の覇者であり、一時的ながらも徳川氏の主筋大名となった尾張織田氏の織田信長も一応は尾張国守護代(守護大名は斯波氏)の家柄を受け継ぐ武士ですが、信長の家系、即ち「織田弾正忠家」は、守護代織田氏の分家筋にして奉行職を司っていました。
 尾張国の斯波氏、駿河国の今川氏(今川義元)、甲斐国の武田氏(武田信玄)、越後国の上杉氏(上杉定実)といった室町幕府から守護大名として公認されていた名門武家の家柄を第1級とするならば、尾張守護代である織田氏(清州と岩倉の2家)は第2級であり、その守護代の家臣筋(奉行職)に当たる織田信長の織田弾正忠家は、第3級の家系に過ぎません。守護大名(斯波氏)からすれば、戦国期の絶対覇者となる織田信長でさえ、本来は守護代の家臣に当たるので、家臣の家臣、いわゆる「陪臣」に当たります。
 織田信長が一代で天下統一を果たすほどの英雄となったので、後年の豊臣・徳川両武家政権内で、信長の血筋(織田弾正忠家)は超名門武家として畏敬されることになりますが、上掲の通り、元を辿れば信長の家系は陪臣筋であり、武家の家柄としては卑賤身分に分類されます。
 記述が重複しますが、戦国期・織豊期・江戸期を通じて生き残った戦国大名家(近世大名)の殆どは、織田信長・徳川家康を双璧に武家の家柄としては『第3級以下の卑賤身分の武家』であり、外様大名に分類される「加賀前田藩(120万石)」をはじめ「筑前黒田藩(54万石)」「広島浅野藩(42万石)」「伊勢藤堂藩(32万石)」「岡山池田藩(31万石)」「徳島蜂須賀藩(26万石)」「土佐山内藩(24万石)」といった各地方の有力藩閥は全て、信長あるいは豊臣秀吉の家来筋から大名へと立身を遂げた武家であります。仮に織田・豊臣家来筋である上記の大名家を数値に例えるなら、第3級家柄である織田信長に仕えていた連中なので「準3級」あるいは「第4級の家柄」であります。
 超1級の名門武家である室町幕府(足利将軍家)から見れば、準3級・4級の武家などは農民や商人と同様、庶民身分のような存在に過ぎなかったでしょう。
 事実、加賀前田藩の藩祖的存在である前田利家は、尾張国荒子村を領有していた農民層の親分的存在である土豪のような身分であり、筑前黒田藩の藩祖・黒田官兵衛(如水)も、祖父・黒田重隆の代から名門守護大名(第1級の家柄)・赤松氏の庶流・宇野氏の分家である播磨の小寺氏(小寺政職)の重臣として仕え、姫路城を拠点とした半独立的の小豪族の家柄で、姫路村一帯に住まう領民を管轄していた武家でした。
 織田信長を筆頭に第3級以下の卑賤武家が戦国期に台頭し、超第1級・第1級や第2級に分類される足利将軍家、各地の守護大名・守護代の名門武家たちを凌駕し、最終的に下剋上を果たすほどの大勢力に成り上がったのかという要因を考えてみると、やはり当時盛んであった農商工業、経済力の基盤を掌握していたことであります。
 織田信長の織田弾正忠家は、守護代の一分家である卑賤武家でありながらも父祖の代より、伊勢湾交易の2大拠点であった尾張国内の「津島」「熱田」を掌握し、商業流通(ゼニ)の力を持っていたことは有名ですし、信長よりも40年ほど年長者である毛利元就の安芸毛利氏は本来、安芸の山間農村部であった高田郡吉田荘を統治する国衆に過ぎませんでしたが、製鉄業(たたら場)を多く有する山の吉川氏と瀬戸内航路に拠点を置き村上水軍とも交流を持っていた海の小早川氏を毛利傘下(即ち毛利両川)に納めることによって、後の毛利氏大躍進(中国地方の覇者)の礎となる経済力を手に入れています。
 現在のビジネス界(多分政界も)でもそうですが、やはり米穀以外の特別な『財布=経済力』(あるいはパトロン的存在)を持っている人物が他と比べ活動の優位性(アドバンテージ)があると思うのですが、この事は日本戦国期に拘らず古今東西における不変な理であります。
 織田信長、或いはその祖父と父である織田信定・織田信秀などは室町期武家社会の中では、先から申し上げている通り第3級以下の卑賤身分でしたが、その分、最下層である農商工業の従事者(民百姓)たちと直に繋がる(傘下に置ける)緊密な関係を構築し易い利点もあり、信長一族の織田弾正忠家は、それを大いに活かしていたと言えます。その証左として、織田信定は自身の娘を津島湊と取り仕切る豪商(武家商人)に嫁がせ、その商家を織田弾正忠家のパトロン的存在にしています。
 商家との閨閥婚姻で思い出したのですが、織田信長も、祖父・織田信定と同様な事をやっており、信長は自身の側室の1人として尾張生駒氏の娘(生駒吉乃として有名、織田信忠・織田信雄・五徳姫らの実母)を迎え入れていますが、この生駒氏も馬借(陸運業)や油業を手広く差配する尾張丹羽郡の土豪兼豪商(武家商人)であり、信長はこの生駒氏の経済力を掌中にするべく同氏の娘を側室に迎え入れた理由の1つだと言われています。

 今記事の冒頭に紹介させて頂きました江戸幕末(嘉永期)の全国の幕藩が描かれている『大名紋章城郭図』には、江戸幕藩体制の首班格である江戸幕府/徳川将軍家をはじめ、外様大名筆頭格の加賀前田氏・筑前黒田藩など江戸期の円熟した武家社会を彩った多くの大藩(大名家)は、室町期~戦国期の武家社会の家柄で言えば、足利将軍家・守護大名・守護代よりも格下である第3級以下(国衆・土豪)ばかりであり、守護大名といった超1級・1級の名門武家が、江戸期の大名家(藩)として存続しているのは、奥州の伊達氏(仙台藩)・秋田の佐竹氏(秋田藩)・南九州の島津氏(薩摩藩)ぐらいであり、守護代クラスの第2級の家柄では、米沢の上杉氏(米沢藩。実態は越後長尾氏が藩祖)くらいであります。
 戦国期にあれほど躍動した甲斐武田氏・駿河今川氏・周防大内氏・豊後大友氏という各地方の「名門守護大名=有力戦国大名」ら第1級の武家も大名家としては消滅し、守護代から有力戦国大名に転身を果たした第2級の越前朝倉氏・出雲尼子氏・備前浦上氏・阿波三好氏も最終的に大名家としては滅亡の憂き目に遭い、江戸期の大名家としては存続していません。

 江戸期の武家社会を構成した江戸幕府/徳川将軍家をはじめ各地の大小の藩は、戦国期の下剋上の動乱を勝ち残った大幅は本来、第3級以下の卑賤武家であったのですが、思えば武家勢力が最盛期を迎えた16世紀の戦国期、その武家が勃興した12世紀末の平安末期~鎌倉期と14世紀から始まる室町期、そして約700年にも渡る長き武家社会を終焉させる江戸幕末期、各々の動乱期は、それまで政権運営を掌握していた京都朝廷や幕府らの力によって収束したのではなく、政権の蚊帳の外に存在していた卑賤身分層が勢力を蓄え、朝廷や幕府を凌駕し、最終的には各期の動乱を収めて新政権を樹立しています。
 武家勃興期である鎌倉期は、当時鄙びた地帯であった東国/坂東地方に割拠していた武装農場主に過ぎなかった田舎者の東国武士団が、武家貴族(京都朝廷では中の下に過ぎない貴族)で出身の源頼朝を棟梁として仰ぎ、東国武家政権(当時は一地方政権。後の鎌倉幕府)を樹立することになり、頼朝や源氏将軍家が断絶した後に武家政権を運営していた北条義時(伊豆北条氏)と東国武士団が、1221年(承久3年)の承久の乱で、古代より日本唯一無二の中央政権運営者であった京都朝廷軍(後鳥羽上皇)を撃破し、史上初の下剋上を成し遂げ、全国武家政権を樹立することになります。
 鎌倉幕府2代執権とされ武家政権を軌道に乗せた北条義時(旧名:江間義時)も本来は、伊豆国の一部しか領有しない小規模武家であり、京都朝廷から見れば卑賤の輩に過ぎませんでした。
 時が経ち鎌倉幕府を壟断していた北条氏(得宗家)を最終的に滅亡させるのは、京都朝廷の後醍醐天皇を旗頭とした足利尊氏や新田義貞ら東国武士団の末裔たちですが、それ以前に鎌倉幕府の足元を揺さぶり、鎌倉政権の滅亡の序曲を担った「悪党」といわれる新興武装集団が存在しましたが、その集団の頭目であったのが、楠木正成・名和長年・赤松円心といった農業のみでなく商工業を生業とする卑賤武士たちでした。
 戦国期については前述の通りなので、ここでは詳細については省略させて頂きますが、南北朝動乱期を制した足利将軍家(室町幕府)は、超1級の武家となりますが、最終的には、遥か身分が卑しい新興武家である織田信長によって幕府は滅ぼされることになります。
 織田信長・豊臣秀吉のように卑賤武家から身を興し、天下を司る武家政権(織豊政権)への臣従、関ヶ原合戦などの雌伏期を経て、江戸武家政権を樹立した徳川家康をはじめ徳川将軍家も、決して武家政権を司る家柄ではありませんでしたが、戦国期下剋上の王者となったのは、地方の中規模武家であった三河松平氏を母体とする徳川氏でした。
 徳川将軍家が樹立した江戸幕府・江戸政権は約260年続いたのですが、その武家政権を打ち砕いたのは、薩摩藩や長州藩・土佐藩・佐賀藩といった、いわゆる「西国雄藩」と呼ばれる地方の武家勢力でした。しかも薩摩藩を筆頭とする西国雄藩を事実上運営して、武家政権の棟梁たる江戸幕府を倒したのは、各藩主(大名本人)・その一門や有力家臣ではなく、各藩に属する下級武士たちあったことは周知の通りであります。
 薩摩藩を主導した双璧の西郷隆盛・大久保利通、その仲間たち(精忠組)は家禄数十石程度の本来は藩政運営をすることは絶対不可能な下級武士たちが大幅であったにも関わらず、薩摩藩政を主導し、遂には江戸幕府を倒幕するという日本史を大転換させるほどの力を発揮するようになります。
 長州藩にしても、高杉晋作・井上聞多(後の井上馨)といった藩内の上級武士は除き、長州のリーダー格であった桂小五郎(のちの木戸孝允)も生家は微禄の藩医(幼年期に中級藩士の桂家へ養子へ行く)であり、桂と同じく藩医出身である久坂玄瑞、明治政府の顕官となる伊藤俊輔(伊藤博文)・山県狂介(山県有朋)ら皆、微禄の武士あるいは足軽・中間といった武家奉公人という卑賤身分です。
 有名な土佐藩の坂本龍馬、その兄貴分であった武市半平太(瑞山の号として有名)、中岡慎太郎らも土佐藩士としては下級身分である郷士と呼ばれる武士たちでした。

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 以上のように、鎌倉初期とその末期・戦国期・江戸幕末期という各時代の大動乱期には、それまで国家運営を切り盛りしていた政権中枢に存在した勢力あるいは人物は、歴史の表舞台から立ち去ることを余儀なくされ、代わりに社会情勢あるいは政治体制に憤懣を持っていた各期の下層身分で『新しき力』『時代に適合した創造力・企画力』を持った勢力や逸材が興り、それまで旧体制・旧態依然の思考に染まりきって惰眠を貪っていた既得権益勢力が一掃され、新たな時代が創造されていったのです。そして、新たな時代を創り上げた勢力および逸材は、己らが築き上げた新時代や新体制を固守するために権力を築き上げ、時間にが経つに連れ、保守的・旧態依然の勢力と変貌していくのであります。
 例えば、鎌倉武家政権を創設した源頼朝や北条氏など東国武士団は自分たちの権益を護るため、旧体制の権化である「京都朝廷・平氏一族(西国政権)」に果敢に立ち向かい、坂東地方に史上初の武家政権を樹立しましたが、一旦事が成就すると、忽ち源氏一門内や東国武士団内で対立・共喰いが始まり、最終的に北条義時率いる北条得宗家が鎌倉武家政権を主導、その後の得宗家の当主たちは自身が掌握している権益や主導権を固守するために、富と権力を独占し、旧態依然の権化と変貌しました。
 その旧態依然となり柔軟性や協調性を失った鎌倉幕府=北条執権体制は、新武家社会の担い手となった逸材・足利尊氏や足利一門によって倒され、尊氏は自身の武家政権を創始するために室町幕府を開き、新体制を築いたのです。
 腐敗した旧体制が若き新興勢力に打破され、新たな時代や体制が始まる、という歴史の繰り返しは、東西の歴史を問わない理であります。

 目下や格下・新規性を侮ることなかれ、とどうしても現状維持・旧態に依存しがちな筆者は自身に常に言い聞かせたいものであるということを、余暇に『江戸(嘉永)時代 大名紋章城郭図』を眺めて思った次第であります。

(寄稿)鶏肋太郎

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