回想・岩屋城(1)高橋紹運の徹底抗戦への強い覚悟

今回は筑後国(福岡県)の岩屋城について、全3回にわたって回想してみたいと思います。

 岩屋城は筑前国の四宝寺山の中腹約280mにあった山城です。現在でいうと福岡県太宰府市観世音寺にありました。ご存じの通り、太宰府は7世紀に地方行政機関として設置され、外交や軍事拠点として機能していた地です。時代を超えてこの地に城を築いたことは九州を治める上で戦略上不可欠だったと想定されます。

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岩屋城の本丸の大きさは南北40m、東西17mで、二の丸とその約200m下には三の丸があり、小さな砦を多く設置していました。天守閣はなく、城壁は土を盛ったものだけのものであり、大軍から守るにはあまりにも不利な防御施設でした。

 岩屋城を巡る戦いとして豊後国(大分県)の大友氏家臣である高橋紹運が島津氏の九州北上を迎え撃った1586年の戦いであることは最も有名です。当時、筑後国(福岡県)侵攻の失敗が尾を引いて急速に勢力が衰えていた大友氏の当主である大友宗麟は自勢力だけでは島津氏の侵攻を食い止めることができないと判断して豊臣秀吉に救援を求めました。九州の豪族は元々独立心が強いこともあり、成り上がり者の秀吉の下につくことをよしとしない豪族は島津氏の反秀吉体制につきました。そのような中、紹運は島津氏の北上を阻止するため、秀吉の来援まで籠城することを決意します。

 当時の大友氏の城塞網は立花山城、宝満城、岩屋城の3城によって形成しています。立花山城は紹運の長子である立花統虎(のちの立花宗茂)、宝満城は次子である高橋統増が城主であり、筑前国における抵抗線は高橋紹運の一族によって敷かれていました。3城で最も防御に適していたのは立花山城であり、約3,000人の兵力を有していましたので大軍に囲まれても一定期間は持ちこたえられる城でした。宝満城は標高約830mの宝満山山頂に築かれた山城であり、天然の要害に囲まれた城でした。岩屋城の本城にあたることから、3城の中で岩屋城は島津氏による侵攻で真っ先に標的となる状況になりました。

 紹運は不利な状況であることを重々承知した上で、宝満城に退くことは島津軍に怯えて背中を見せて逃げ出すことと同じであること、宝満城の籠城軍は高橋・筑紫両軍の寄せ集めであり長期戦には不向きであること、運がなければどこにいても滅びると考えて岩屋城での籠城を決意しました。紹運は家臣に秀吉の来援が来るまで守り続けるとして籠城に反対する者は去ってよいと言いましたが、誰一人として去るものはいなかったようです。立花山城にいる統虎も紹運に立花山城に来るよう勧めましたが、紹運は一切聞き入れずに決別状を送っています。

 なぜ紹運は話を聞き入れずに岩屋城籠城を決意したのでしょうか。推測として、島津軍にとって岩屋城は立花山城、宝満城の前線にある障害であり、そのまま通せば無傷で両城が攻められることになることから、二段構えの防御態勢によって秀吉の来援まで時間を稼ぐ狙いがあったと想定しています。紹運は頭の中で岩屋城においてかなりの打撃を加えれば島津軍の士気は間違いなく低下し、進軍も鈍ることを描いていたのでしょう。この先見性は九州における戦国史において重要な意味をなすことになります。

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 次回は岩屋城の戦いについて回想してみたいと思います

(寄稿)ぐんしげ

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