徳川家康が姓を変え苗字を変えた「大人の事情」~松平から徳川姓へ

▼徳川家康は天文11年(1542年)に、三河国(現在の愛知県東部)岡崎城で小大名・松平広忠の嫡男として生まれた。
波乱万丈の生涯を経て、元和2年(1616年)4月17日に駿府(静岡市)で、病気のため亡くなったとされる。
数え75歳。今の暦だとこれは6月1日にあたるようだ。
死因は俗に「天ぷらの食中毒」・・ともいわれてきたが、『徳川実記』の所見記録によると末期胃癌の症状悪化ではないか・・という説が有力だ。

▼その徳川家康(松平元康)は桶狭間の戦い(永禄3年・1560年)の結果、今川義元が敗死し、家康は今川家による支配を離れ岡崎城に戻って独立した小大名となる。
その6年後の永禄9年(1566年)に、「従五位下・三河守」への任官と苗字を「松平」から「徳川」に改める朝廷の勅許を得ている。
松平元康の「元」の字は今川義元から与えられた一字を冠している偏諱(へんき)なので、今川家と決別する決意表明のためにも返上する必要があったのは分る。
代えて「家」の字を冠したのは、源氏の嫡流(トップ・ブランド)源八幡太郎義家にあやかったものであろうという観測も多い。
「康」は当初「元信」であった名を、敵方織田家の偏諱「信」に当たるとされ、祖父で松平中興の名君・松平清康にちなんで若年のうちに変えている。
でも・・誰かの養子になったわけでもないのに、なんで改姓し苗字も替えたのだろうか。

▼もともと徳川家康の松平家は源氏の流れ(ということになっている)。
後世、江戸幕府によって編纂された『徳川実紀』や『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』によると、家康の遠祖は新田源氏の一流で、上野国(こうずけのくに・現群馬県)の「世良田(せらだ)郷・得川氏」であるとしている。
『寛政重修諸家譜』『徳川諸家系譜』に記載された血脈は、新田義重の四男・新田義季(よしすえ)を家祖とする、世良田徳川(得川)の流れを受け継いだものであるとしている。
源義家の三男が源義国、その子(つまり源義家の孫)源義重は上野国に本領地があり、あらたに新田荘(群馬県太田市)を開墾して、苗字を「新田」に改めた。新田義貞の家の祖となる。

新田義貞挙兵の地

新田義重の異母弟は足利の荘を相続して足利義康と名を変える。
足利尊氏の直系の先祖に当たる。
得川(世良田)氏はその新田義重の四男が分家した家である。
そのあたりの詳しい事情は、拙稿「新田義貞誕生の地伝説と『南総里見八犬伝』の一族の里見城」を参照してほしい。https://senjp.com/nitta-yo/

▼室町時代中期の永享年間(1429年~1441年)、世良田有親(得川有親)、世良田親氏(得川親氏)の親子は戦乱を逃れ出て、長阿弥・徳阿弥と称し時宗の遊行僧として諸国をまわったとされる。
乞食坊主と言われても仕方ない流れ者である。
永享の乱に端を発した関東騒乱で、鎌倉公方・足利持氏と、対立する京の将軍・足利義教の双方から危害を受けたため上野国を離れたのだという。
長阿弥・徳阿弥親子は三河国に流れ着き、長阿弥は没したが、徳阿弥は在地の小豪族の娘とねんごろになり、男子を設け還俗して豪族の婿となって、親氏を再び名乗る。
このときの男子がのちに酒井家の祖となる酒井親清とされる。

▼数年で妻に死に別れた世良田親氏(得川親氏)は、近在の賀茂郡松平郷の小領主・松平太郎左衛門信重に望まれて婿となり松平家を継いで、松平親氏となる。
この家は在原(ありわら)姓で、代々京都賀茂社の領地を管理する荘官だ。
賀茂社の神紋である「三葉葵」を家紋としている。
徳川家康にとっては、これらの血脈を論拠として松平家のルーツは上野国世良田荘の徳川氏(得川氏)であると結論付け、「松平の苗字を徳川にもどしたまで・・」という理屈をのちに展開している。

▼このあたりの事情については、幕府の(いわゆる勝者の)記録以外にも同様の記載がある。
徳川家中の旗本・大久保忠教(大久保彦左衛門忠教)の書き残した『三河物語』にも同様の話が書かれている。
彦左衛門が『三河物語』を書いたのは、一族の大久保忠隣が改易された事件にかかわったことで幕府に憤りを抱いていた時期とされ、ある意味、徳川のルーツを暴露したいという意図があったとうかがわせる。
ただし、大久保彦左衛門は子孫には門外不出の記事として扱うよう命じている。

▼「徳川」に苗字をあらためた当時、徳川家康(松平元康)の松平家は東三河(愛知県東部)をようやく制圧し、三河一国を手に入れたばかりの戦国大名としては勃興期であった。
桶狭間合戦以後、旧主の今川家は衰えたが、変わって脅威となってきたのが甲斐の大大名・武田信玄。
徳川家はこのあと、武田信玄そして勝頼との間で、旧今川領土の遠江国(静岡県西部)を取り合うのだが・・。

▼新興の小大名・松平元康(徳川家康)が欲しかったのは、同格で出発した他の松平一党からあたま一つ上に立ち三河国衆の旗頭として君臨し続けるための権威、そして対武田対策として牽制のための大義名分である「三河守」の官位だった。
家康はさかんに朝廷に猟官工作(官位獲得運動)をはじめるのだが・・
アタマの固い権威バリバリ先例至上主義の朝廷に言わせると、「源氏(松平)姓が三河守に任官した先例はない」ということで断られた。

▼姓というのは、源・平・藤(藤原)・橘といった天皇家との血族たる関係を示す名称。家康も、後年の署名は「源朝臣家康」と書いている。
そしてその「姓」も分家を繰り返すうちに煩雑になってきて、分家のほうが遠慮して、土着した本領地の名称などを「苗字」として主にオリジナリティに名乗る者が多くなってくる。
源義家の孫が新田義重、足利義康と名乗りを変えたなどは代表的な例だ。
朝廷に言わせると、家康が官職を望んだ時点で、「源氏の三河守」の前例がなかったことが問題なのだろう。

▼近衛前久らを仲介にして働きかけた結果、同じ源氏の「新田氏」が藤原の家系を引いていることを見つけ出す。
「意を受けた吉田兼右(かねすけ)卿が、万里小路(までのこうじ)家の書庫から先例を探し出し、鼻紙に書き写したものを近衛前久に渡した。
徳川氏はもと源氏で、二流ある惣領の系統の一つに藤原になった先例がある。」
(慶長八年三月二十日付 近衛前久 文書による―回想録であろう)
藤原氏ならば「三河守」任官の前例がある。
その新田源氏の庶流・源義国以来の「得川氏」の血脈を家康が受け継いでいるということで(この辺は戸籍のねつ造に近いと思うが)、朝廷も近衛家らの意見を入れて、家康は念願の「三河守」を手に入れた。
音をそのままで、文字を仔細あって「徳川」に改め、朝廷から苗字を下賜された。
だからこの時期からはしばらく「藤原朝臣家康」の署名をしているわけだ。

▼古来、武家の二大系列「源・平」による、政権交代説が信じられていた。
最初に武家政権を打ち立てたのは、平清盛だった。
平家を倒して鎌倉幕府を開いたのは源頼朝。
しかし源氏政権も3代実朝で絶え、執権北条家(平氏)が事実上の鎌倉政権を担う。

鎌倉幕府を倒したのは、足利尊氏と新田義貞を中心とした源氏勢力だった。
足利尊氏は京都室町に幕府を開き、戦国時代の第15代義昭まで名目上政権が続いた。
15代義昭を奉じて戦国乱世を終息に向かわせたのは、平氏を称する天才・織田信長だった。
彼はのちに将軍義昭をも追い出して肩書を望まないまま政権の頂点に立った。
本能寺の変の後、この安土桃山政権を引き受けたのが豊臣秀吉で、源平藤橘以外の流れの唯一の政権となる。
平氏・織田信長の次の本格武家政権は源氏の流れの者であるのが自然だ、という認識が世論にあった。
徳川家康自身も諸国の武将たちもそう考えたに違いない。

▼関ケ原合戦で勝利していよいよ政権奪取を前にすると、家康は藤原から源氏に「戻る」必要を感じたはずだ。
藤原や平氏では朝廷の慣例で「征夷大将軍」の官職を得られない。
源頼朝以来、幕府を開くための要件である「征夷大将軍」任官は前例から「源氏」の流れであることが必要だ。
既成の官位を望まなかった織田信長はともかく、豊臣秀吉は幕府を開くために落ちぶれた流浪の足利義昭に取り入ってその養子となり、源氏の姓に入ろうとした。
しかし、この計画は出自の卑しい豊臣秀吉を嫌った足利義昭が一蹴したことで破談になり、結局、豊臣秀吉は買収と圧力で公卿の最高位・関白兼太政大臣となって、政権の箔付けをはかった。

▼豊臣秀吉の死後、関ケ原の戦いでの勝利を経て、徳川家康は江戸幕府を開き「征夷大将軍」を子孫に世襲させていくのだが、それが視野に入ると、かえって「源八幡太郎義家」以来の源氏のほうが都合が良いので、元の源朝臣(あそん・朝廷の臣下であること)家康に姓を戻して(復姓して)いる。
ただし、裏付けとなる正式な系図は、将軍宣下の直前に吉良家から譲り受けたものであるという。
この辺に、幕府にとって都合の悪い公然の秘密(トップ・シークレット)の証拠を吉良家が握っており、のちの5代将軍徳川綱吉は、自らの家系図を揺るがぬものとするため赤穂浪士の事件を好機として、吉良家改易に動いたという分析がなされる。

▼いま、群馬県太田市徳川町に、「徳川発祥の地」の表示が建つのも、また全国2箇所のみの幕府公認「縁切り寺」満徳寺があったのも、こういった縁により、徳川郷が幕府から聖地として租税免除などの特別の待遇を受けていたためだ。

満徳寺

満徳寺付近には「世良田東照宮」もあり、江戸時代から幕府に保護されてきた。
三代将軍徳川家光が日光に(現在の規模の)東照宮を造営した際に、父秀忠(二代将軍)が日光に造ったもとの殿舎(家康を崇拝する徳川家光にとっては物足りない社殿)をこの「徳川」ゆかりの地に移築して世良田東照宮として祀ったといわれる。

世良田東照宮

※本稿執筆にあたっては、私の母校國學院大學の教授であった二木謙一先生の著書『徳川家康』(ちくま新書)をおおいに参照させていただいた。
なお文中の事象について諸説あることはもちろんである。

(寄稿)柳生聡

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