五箇伝(ごかでん)とは?~作刀の五大流派「日本刀の五大刀工流派」

「五箇伝(ごかでん)」―作刀の五大流派

「五箇伝(ごかでん)」とは、作刀の五大流派を言う。「大和伝(奈良県)」、「山城伝(京都府中央部)」、「備前伝(岡山県東部)」、「相州伝(神奈川県中西部」)「美濃伝(岐阜県中南部)」を指し、鍛造方法、作風、時代、産地で五つに分類される。「五箇伝」以外の無数の少派は「脇物」と称される。

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大和伝

「大和伝」は、五箇伝のうち最古の歴史を持つ。大和は大和王権誕生の地であり、各地の豪族を滅亡または服属させ王権を確立させた地である。首府であるこの地には、大陸からの様々な技術が真っ先に伝播した。製鉄鍛冶の技術も例外ではない。詳細な記録は残ってないが、刀鍛冶が存在していたことは紛れもない事実である。現存する日本最古の刀剣は、奈良正倉院収蔵の上古刀(無銘 直刀)といわれている。わが国で最初に銘を切ったのは、「天国(あまぐに)」という名の刀工との伝承はあるが、あくまでも伝承の域を出ない。明確な資料が残っている来歴で、銘が残っている最初の刀剣は、長承年間(1132年~1135年)、行信を始祖とする千手院派の作刀である。

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その後、則長を始祖とする尻懸派、国行を始祖とする當麻派、包永を始祖とする手掻派、そして、保昌貞宗を始祖とする保昌派が誕生した。この五つの流派を「大和五派」と呼称する。
「大和伝」の作風は、装飾性を排し、武器としての実用性を最優先としている点だろう。重ねは厚いが重量軽減のため鎬は薄い。よって鎬が高くなっている。狭い身幅、小さな切先、地鉄は直線的な柾目肌。刃文は、中沸本位の直刃に互の目の小丁子交じり。食い違い刃、二重刃等、柾目に沿う縦向きの働きが見られる。帽子(切先)の特長は、線状に光る金線や砂流しが見られる。また、「大和伝」の刀剣は殆どが無銘なのも特長である。大和の刀匠はいずれかの寺社に属し、所属した寺社に直納したことがその理由といわれている。いわば、一個人の作品というより工房で生産される工業製品として扱われていたのだろう。

山城伝

延暦十三年(794年)、桓武天皇の勅命により大和国から山城国への遷都(平安京遷都)がなされた。権力基盤の移動に伴い、作刀も山城国で盛んになった。初期の需要は武とは無縁の平安貴族が多数を占めていた関係上、刀剣には装飾美や様式美が求められた。しかし、時代を経るにつれて、蝦夷征伐(阿弖流為《アテルイ》の反乱・八世紀末から九世紀初頭)、承平天慶の乱(東国での平将門の反乱。西国での藤原純友の反乱・931~947年)、前九年の役(陸奥安倍氏の反乱に対する源頼義の鎮圧・1051~1062年)、後三年の役(出羽清原氏の内紛への源義家の介入・1083~1087年)による奥州の動乱、保元の乱(天皇家、源氏、平氏等の内紛・1156年)、平治の乱(源平の武力による権力闘争・1160年)等々、刀剣の需要は増大した。その需要に応じるため、数多くの刀工が平安京に移住してきた。多数の刀工の中で群を抜いた存在だったのが、三条に工房を構えた三条宗近で三条流の創始となった。三条派は、宗近の子孫である吉家、兼永へと承継された。また、平安時代末期から鎌倉時代初期に粟田口國家を始祖とする粟田口派が誕生し、國友、久國、國安、國綱ら名工が活躍する。そして、鎌倉時代初期から南北朝期中期に、来國行を始祖とする来派が登場する。来派は、始祖國行を始め、國俊、國光、了戒、國次、國長等の現代にまで名を残す名工を輩出した。よって、「山城伝」といえば来派といわれるほどである。これらの流派を総じて「山城伝」と称する。
「山城伝」の作風は、反りが刀身の中央にある輪反り、根元から反りがある腰反りが大きな特長である。地鉄は、細かな地沸が厚く均等に付き、小板目がよく詰み、帽子には大きな崩れは見られない。刃文は、小沸が深く、小乱れ、小丁子交じり。金筋、地景、二重刃、湯走りなど多種多様である。この多種多様さは、「山城伝」の長期の繁栄と多数の流派が切磋琢磨して生み出した結果といえるかもしれない。

備前伝

古には吉備と呼ばれていた備前、備中、備後(岡山県全域、広島県東部の一部)には、現在、多くの遺跡や古墳が残っている。これらは、吉備が古代より独立した強大な権力によって統治された豊穣の地であった証である。加えて、吉備は中央政治(大和王権)から離れており、その権力闘争の影響が少なかったのも長期に渡って繁栄した要因であろう。瀬戸内海の海運、吉井川流域で産する良質な砂鉄、中国山地の豊かな森林資源を背景に生産される木炭、そして、武力を必要とした地域権力。作刀が盛んになるのも当然であった。
平安末期から鎌倉初期にかけて古備前派と称される刀工集団が生まれている。始祖は、一条天皇に召し出された友成とされる。他に著名な刀工として、正恒、包平がいる。鎌倉初期、備前国福岡において福岡一文字派と呼ばれる吉房、助宗、則房、そして、近在の吉岡、畠田、和気、そして、長船に刀工集団が誕生する。特に、光忠を始祖とする長船派は、長光、景光、兼光といった名工を生んだ。「備前伝」といえば、長船と称されるほどの大流派になっていく。後鳥羽上皇が各地から召し出し、月番で作刀させた「御番鍛冶」12名のうち、10名が「備前伝」の出身であった。「備前伝」の作刀技量がいかに高かったかを物語っている。
「備前伝」の典型的な作風は、茎の上から反りが入る腰反り。地鉄は杢目交じりの板目肌。刃文は匂いによる丁子乱れや互の目乱れ、鎬に沿って乱れ映りがある。刃縁には細かな沸が入っている。帽子は刃文に従って乱れ込み、返りは浅い小丸になる。

相州伝

源頼朝を棟梁に擁立し東国武士団が結集して成立させた鎌倉幕府。その本拠地であった相模国鎌倉を中心に成立した流派を「相州伝」という。発祥時期は、五代執権得宗家北条時頼の時代。山城より粟田口國綱、備前より一文字分派の國宗、福岡一文字派の助真が招聘された。彼等によって「相州伝」が始動したといわれている。粟田口國綱の子の新藤五国光は、父國綱より「山城伝」、一文字分派の國宗より「備前伝」を伝授された。新藤五国光の門弟からは、行光、越中則重、郷義弘、岡崎五郎入道正宗等の逸材が世に出た。特に、鎌倉末期に登場した岡崎五郎入道正宗は、「相州伝」を大成させた名刀工としてその名が現在まで知られている。

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日々、戦乱を生き抜かねばならなかった鎌倉武士の好みに合った力強く、覇気に満ちた作風が「相州伝」の特長である。具体的には、広い身幅で鋒が伸びている。重ねを薄くして刃の通りが良く鋭い切れ味。馬上で扱いやすくするため刀身の中心に反りの頂点が来る輪反り。全てが実戦に即した刀姿している。地鉄は、板目に杢目交じり。刃文は、沸が強く互の目乱れ、さらに飛焼、皆焼が現れている。「相州伝」の刀工たちは、元寇の影響で豪剣を作刀の旨とした。より強靭な刀剣を製作するため新しい鍛造法の研究を重ねた。この鍛造法は未だ詳らかではないが、高温での加熱と急速な冷却が重要な鍛造方法だと考えられている。この技術は、鎌倉幕府滅亡と共に衰退、安土桃山期には消滅してしまった。

美濃伝

「美濃伝」は五箇伝の中で一番新しい流派で、最盛期は戦国期である。しかし、鎌倉中期弘長年間(1261年~1264年)にはその萌芽が見いだせる。良質な焼刀土を求めて九州から美濃に移住した元重が始まりといわれている。その後、南北朝時代初期建武年間(1334年~1338年)、「相州伝」の名工岡崎五郎入道正宗の高弟「正宗十哲」の一人、志津三郎兼氏が大和国より美濃国志津に、南北朝時代中期貞治年間(1362年~1368年)には、兼氏と同じ「正宗十哲」にして関鍛冶の始祖、金重が越前国敦賀より美濃国関に移住し、作刀を始めた。元来、「大和伝」の流れをくむ「美濃伝」であったが、彼等の移住により「相州伝」の伝法が加わり、新しい作風が創造された。室町時代になると「関七流」といわれる多流派が生まれる。各々が独自の技を研鑽し多くの名刀を生み出した。関は、刀銘に「兼」の字を用いる刀工が多く、中でも「和泉守兼定」「関の孫六兼元」等が白眉とされている。
「美濃伝」が戦国期に最盛期を迎えたのは。地理的要因が大きいといえるだろう。美濃国は、地理的に日本列島の中心にあたる。古来より畿内、東国、北陸へ向かう者にとって交通の要衝であり、同時に軍事上の要衝であった。天武天皇元年(672年)には、古代日本における天下分け目の戦いであった「壬申の乱」、また、千年後の慶長五年(1600年)には、再度、天下分け目の戦いとなった「関ヶ原の戦」が同一の場所(関ヶ原町)で勃発しているのも単なる偶然ではない。美濃国は、天下の覇権を狙う者にとって欠くべからざる地政学上の要であった。かの地で武器需要も右肩上がりに増大していくのも必然といえるだろう。
「美濃伝」の作風の特長は、平地は板目肌や小板目肌だが、鎬地が柾目肌になっているところであろう。刃文は、互の目に尖刃が交っている。最も特長的なのは、地蔵尊の横姿に見える地蔵帽子と称される刃文であろう。

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なぜ「武蔵伝」は誕生しなかったのか?

「五箇伝」の中で「大和伝」「山城伝」「相州伝」「美濃伝」は、それぞれ奈良、京都、鎌倉、岐阜と時の権力者と密接な関係をもって発生し発展した。権力(武権)を誇示温存しようとする者とって、武器の永続的な確保と独占は必須の命題である。それは、刀剣の時代が終焉し銃砲に変わった近代、ICBM等の大量破壊殺戮兵器になった現代も変わりがない。また、紀元前13世紀頃、アナトリア(現在のトルコ)で勃興したヒッタイトは、史上初の製鉄技術とその独占を果たし小アジアを席巻した。尚、近年の発掘調査の結果、同じアナトリア地域でヒッタイト以前の地層より製鉄の痕跡が発見された。よって、製鉄技術はヒッタイトが最初でなくなったが、ヒッタイトが製鉄技術と鉄器を独占しアナトリア半島の統一を成し遂げたのは紛れもない史実である。古今東西を問わず武器の量的確保と質的優劣は、彼我の存亡を左右する重大事である。
例外的に権力と結びつかず発展したのが「備前伝」である。古代では吉備という強固な地域権力と結びついてはいたが、吉備の衰退と運命を共にせず、古代から現代まで命脈を保っている。現存する刀剣で一番多数なのは「備前伝」である。明治期の刀剣研究家本阿弥光遜によれば、備前伝4005振り、美濃伝1269振り、大和伝1025振り、山城伝847振り、相州伝438振りと圧倒的な残存数である。「備前伝」が長く作刀を続けられた要因は、権力に取り込まれることなく作刀を工業的産業として発展させたからといえる。吉井川流域産の砂鉄、燃料としての中国山地の豊富な木材、瀬戸内海の海運。現代風に言えば、原料、エネルギー源、流通網の工業生産に不可欠な要素が整っていたからである。 上記内容を考慮して、なぜ「武蔵伝」はないのか?という疑問ついて考えてみたい。
武器と権力の切っても切れない関係は、歴史の事実が物語っている。だが、武家政権である江戸幕府のお膝元である江戸で「武蔵伝」が誕生しなかったのは如何なる理由なのか。あくまで、私見であるが、江戸幕府が武を嫌悪した武家政権であったからと考える。歴代の権力(大和朝廷、鎌倉幕府、室町幕府、安土桃山政権)が採った武による政権の保持(武断主義)を早い段階で法制度と思想教育による権力の保持(文治主義)へと大きく舵を切った。幼少より戦国の辛酸を舐め、今川氏、織田氏、豊臣氏の滅亡を目の当たりしてきた徳川家康と家康の意を汲んだ幕閣は、こう考えたに違いない。
「武による統治に費やす武力行使は、際限無くお互いが疲弊消耗するだけである。仮に小康を保ったとしても一時に過ぎず乱世を終わらせるなど不可能である。ならば、文による統治を実践し、法と教育を用いて殺伐とした時代と人心を刷新させようではないか」と
具体的には、武家諸法度、公家諸法度等の法による統治を行い、江戸府内への大量の武器の持ち込み禁止、参勤交代や手伝普請による大名、とくに外様大名への財政的圧力、武士階級への教育には儒教、特に孝養と忠君を第一義(大義名分論)とする朱子学を官学と定めた。武家の棟梁である徳川将軍家に叛旗を翻すなどは政治的にも道徳的にも決してありえないとの概念を構築した。そのような政策を採用した江戸幕府のお膝元で「武蔵伝」は誕生するはずもなかった。武を嫌悪した武権下で260年の天下泰平を謳歌できたのは功であるが、幕末、欧米列強に武器や科学技術で大きく立ち遅れていたのは大きな罪といえるかもしれない。

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(寄稿)大松

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