本多重次とは
徳川家臣には、家臣の誰よりも気性が荒く、豪快な人物がいました。その人物は本多重次(ほんだ-しげつぐ)。あまりの気性の荒さや徳川家康にも平気で物申す態度と武勇から「鬼作左」と呼ばれていました。
そんな今回は、重次の生涯と性格にまつわるエピソードを合わせてご紹介します。
忠義のために改宗
重次は本多重正の子として享禄2年(1529)に生まれます。若くして家康に仕え、永禄元年(1558)の家康の寺部城初陣時に功績を挙げました。また、永禄6年(1563)の三河一向一揆では、自らの宗教が一向宗側の浄土真宗であったのにも関わらず、改宗して家康の味方をしました。
三河三奉行に就任
その忠義の功績からか、永禄8年(1565)には天野康景と高力清長と三河三奉行に抜擢されます。3人は「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」と揶揄され、性格が異なる3人による政治は領民たちからの評価が非常に高いものでした。
重次は豪快な性格が表現されたように、非道なことをせず平等に物事をすぐに決めるので、周りが驚いたエピソードが残っています。
鬼作左の活躍
元亀3年(1572)には、家康と三方ヶ原の戦いで武田軍に敗北を喫します。命からがら浜松城へ逃げたのはいものの、兵糧がないことに気が付きます。そんな状況でも、重次は事前に兵糧を用意していたことで、家康は武田軍から逃れました。重次は結果として、家康の人生最大の危機を2度も救いました。
また、この戦いで浜松城へ撤退の時、敵兵に囲まれながらも騎馬兵を討ち取ってその馬を奪った武勇伝が残されています。
秀吉の怒りを買い、蟄居
その後は天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍。重次は自らが勧誘した伊勢国の海賊で元武田軍の向井正綱を率いて後北条家の水軍を率いていた梶原景宗を撃破しています。そして同年に家康が関東移封の際、豊臣秀吉の怒りを買ったことで上総国古井戸(現在の千葉県君津市)、後に下総国相馬郡(現在の茨城県取手市)へ蟄居させられました。
蟄居の理由は秀吉に人質に出していた重次の子・本多成重を母親の看病を理由に呼び戻したこと。小田原征伐の際、岡崎城に立ち寄った秀吉との対面に応じなかったこと。家康が秀吉に臣従するため上洛した際、自身の娘で家康の継室・朝日姫を見る目的で岡崎城に来た秀吉の母の宿舎に、いつでも放火できるように薪を配置していたこと。
以上の3つがたびたび秀吉を怒らせ、重次の蟄居が命じられたと考えられます。
その後は文禄5年(1596)に68歳で病死しました。
家康への忠義と日本一短い手紙
重次は家康に対する忠義は誰よりも厚く、それが現れたのは天正13年(1585)の時でした。その年に家康が腫物を患い、医者の話に耳を貸さなかった際、重次が切腹準備をしたところ、家康は医者の話を聞いた話が残っています。
また、気性は荒いですが、日本一短い手紙である「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」を書いていました。この手紙からは、厳しい中にも妻子のことを心配する重次らしさがうかがえます。
寄稿(拾丸)
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