粟之巣の変事とは~独眼竜「伊達政宗」非情の決断と父との別れ

粟之巣の変は、戦国時代に伊達輝宗が宮森城で畠山義継に拉致され、粟の巣(二本松市平石高田)にて2人とも射殺された事件。
この粟之巣の変を解説する。

粟ノ巣の変

小手森城の撫で斬りによって、伊達家新当主の印象と裏切り行為を徹底的に処分するということを周囲の大名に見せつけることとなった伊達政宗。
ただ、この戦いで大内定綱を捕らえる出来なっかったことを非常に悔やんだのです。

大内定綱は、小手森城が攻められる前に二本松城主・畠山義継を経由して会津・蘆名家へ逃がれていたのでした。
そして、その怒りの矛先は、二本松城主・畠山義継へと向けられたのです。

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次の標的が自分であると知った畠山義継は、すぐに降伏を申し出ますが許されることはありませんでした。
伊達政宗によって畠山家が壊滅する危機的状況に陥った畠山義継。
かつて誼を通じていた伊達政宗の父・伊達輝宗に僅かな望みを繋げたのです。

伊達輝宗の斡旋もあり、伊達政宗は畠山義継続の降伏を渋々受け入れます。
しかし、伊達政宗が畠山義継へ示した降伏条件は、二本松領の僅かな土地以外の全てを没収という非常に厳しいものだったのです。
この条件では、畠山義継が大名として維持していくことは不可能でした。
元々、小国の大名でしたが、戦に大敗した時と同じような降伏条件だったのです。

これを厳しすぎると思った伊達輝宗、側近の伊達成実らの取り成しによって、杉田川から油井川までの五ヶ村を二本松領とし、嫡子を人質として出すという降伏条件に緩和されたのです。
だが、緩和されたとはいえ、自分の家臣達を養うにはほど遠いものであり、このことが原因で畠山義継は、伊達政宗を深く恨むようになるのです。

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粟之巣の変事

1585年(天正13年)10月8日
畠山義継は、所領安堵の件などの礼を示すために伊達輝宗の居城・宮森城へ訪問します。
御礼の儀式も穏やかに終わり、城門まで見送りに出たところ、突如として畠山義継らが伊達輝宗を拉致するという暴挙にでたのです。

この場には、伊達政宗の側近・伊達成実、留守政景も同席していたのですが。突然のことだったため為す術もありませんでした。
一方、伊達政宗は鷹狩りに出ていたため不在だったのです。

畠山義継らによって拉致された伊達輝宗は、伊達勢の目の前で用意していた馬に乗せられ二本松領へ向けて連れ去られていきました。
このまま何もせず二本松領に入られてしまうと、救出することが非常に困難となるため、急ぎ馬を用意して二本松領に向かうと宮森城から10里余りの粟之巣(あわのす)で何とか追いつくことができたのです。

父・伊達輝宗が拉致されたという報せを受けた伊達政宗も馬に飛び乗ると二本松領に向けて馬を走らせ粟之巣に到着しましたが、伊達成実らは手を出せずにいたのでした。
自分たちが手を出せば伊達輝宗が討たれるということは、誰の目にも明らかだったのです。

伊達政宗が到着したことを知った伊達輝宗は、伊達家のために自分も一緒に討ち果たすように伊達勢に向かって叫びます。
それを聞いた伊達政宗は躊躇しますが、それ以外に選択肢がないということは十分に承知していました。
自分を一番に信頼してくれた父・伊達輝宗を畠山義継らとともに討つことは、これまでの人生で一番厳しい決断といえました。
父の訴えに従い、涙ながら鉄砲隊に向けて発射を命じると、畠山義継らを打ち取ることができました。
しかし、同時に父・伊達輝宗も落命してしまったのです。

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この挿話は、伊達領と二本松領の境界が阿武隈川であったため、阿武隈川の河原を描写されることが多い傾向にあります。
しかし、粟之巣古戦場は阿武隈川から離れた東の位置にあります。
そこから阿武隈川を見ることができないため、場所も其処なのか確定されていません。
また、鉄砲で撃ちかかる前に負けを悟った畠山義継が、伊達輝宗を刺殺して自害したという説もあります。
ただ、この決断が結果として伊達家臣団の結束力を強固なものとし、伊達家の大きな躍進に繋がっていったのです。

弔い合戦へ

父・伊達輝宗の初七日法要を済ませた伊達政宗。
1585年(天正13年)10月15日
畠山一族を殲滅するために弔い合戦と称して二本松城に向けて出陣します。

一方の畠山家は、二本松城主・畠山義継が粟之巣でなくなっているため、11歳の嫡男・国王丸が総大将を務めることになりました。
幼子が総大将ということもあり、城内の動揺や混乱が予想されましたが、後見役である新城弾正によって家臣団はしっかり纏まったのでした。
新城弾正は、直ちに領内の全ての兵を二本松城に集結させると籠城決戦の準備に入ったのです。

伊達政宗は、加勢を承認した相馬藩主・相馬義胤とともに二本松城を1万3千の兵で包囲しますが、二本松城は容易に攻めることのできない天嶮の山城であったため、長期戦が予想されました。
弔い合戦ということもあり、進軍中に様々な調略を試み、力攻めによる早期決着をしようとしますが、明らかな進展に繋げることは出来ませんでした。

翌日の16日になると雪が降り始め、17日には大雪へと天候が悪化します。
伊達政宗は、兵の疲弊を避けるために一旦包囲を解くと小浜城へ帰還することにしました。

この撤退の好機と捉えた新城弾正は、周辺の大名だけでなく常陸国・佐竹義重に国王丸の名で救援の密使を送ったのです。
一連の動きを静観していた大名たちは、伊達政宗に対して疑念を抱いていたこともあり、反伊達連合軍となって二本松城の救援へと動き出します。

反伊達連合軍には、南陸奥の大名(葦名・磐城・石川・白河・須賀川)だけでなく、「鬼佐竹」と怖れられた常陸国・佐竹義重も加わることになり、3万の大軍に膨れ上がったのです。

反伊達連合軍の総大将が、常陸国の佐竹義重になったのは、南陸奥で中心的役割を担う会津藩当主・蘆名盛隆が暗殺で亡くなるなど家内が不安定だった。
会津・蘆名家以外の諸大名は、伊達家に対抗するほどの力を持っていなかった。
佐竹義重からの出陣要請に従わざるを得なかったなどが考えられました。

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一方の伊達軍は、8千ほどだったと言われています。
この後、伊達政宗にとって大戦となる「人取り橋の戦い」へと繋がっていくのです。

(寄稿)まさざね君

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