海戦の革命を起こした織田信長~木津川口の戦いと石山合戦の終結

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天王寺砦の戦い

織田軍に包囲された石山本願寺で籠城戦を続ける宗主・顕如。
槙島城の戦いで織田信長に敗れ、京を追放されて中国地方の大大名・毛利輝元の庇護を受けている将軍・足利義昭。

最大の敵が、織田信長だという点で共通していました。
そんな足利義昭は、信長打倒を諦めきれず、毛利輝元に信長包囲網の参画を執拗に呼びかけます。
ようやく賛同した毛利輝元は、直接対決ではなく石山本願寺に武器弾薬や兵糧を送り込む背後支援を引き受けたのです。

ともあれ大きな後ろ盾を得て勢いづいた宗主・顕如は、港から陸揚げされた救援物資を運ぶ陸路確保のため一向門徒宗に動員令を出して5万の兵を集めます。

1576年(天正4年)5月7日
鉄砲傭兵集団で一向宗門徒でもある雑賀衆を中心に構成された石山本願寺と織田軍が天王寺砦で激突となりました。
緒戦は数的優位の門徒宗が圧倒していましたが、織田信長の奇策によって形勢が逆転となり2万5千以上の首をとるという織田軍の大勝利に終わります。

それでも将軍・足利義昭と宗主・顕如は、毛利輝元が信長包囲網に賛同していたので、全く姿勢を変えることはなかったのです。
畿内周辺で織田信長に不満を持っている大名・国司などに信長包囲網参画の手紙を出し続ける足利義昭。

少しずつ手紙の成果が実り、信長包囲網に参画を表明する大名・国司が現れはじめます。
また、越後の虎・上杉謙信も足利義昭に応じて上洛する準備を始めたのです。
このことは、織田信長にとって大きな逆風となり非常に厳しい状況と追い込まれていきます。

そのため織田信長は、この状況を打破するために一番目障りな石山本願寺を真っ先に潰すことを決定します。
しかし、難攻不落の石山本願寺で籠城戦を続ける顕如や一向宗門徒を潰すには、毛利からの救援物資を完全に阻止する必要があったのです。

そこで、伊勢水軍を率いる滝川一益と志摩国を本拠とし九鬼水軍を率いる九鬼嘉隆に大坂湾(木津川河口)の防衛を命じた織田信長。
毛利からの救援物資を阻止するため、総数300隻の織田水軍(伊勢水軍と九鬼水軍の連合)で大坂湾(木津川河口)の防衛にあたらせたのです。
この木津川は、大坂湾から石山本願寺にも通じていたため物資搬入には欠かすことのできない重要な川でした。

第一次木津川口の戦い

1576年(天正4年)7月15日
木津川河口を300隻の船で警守していた織田水軍の眼の前に、海上において戦国最強と言われた村上水軍と毛利水軍の700~800隻の船が現れます。
※実際、600隻とも言われているが諸説あり。

織田水軍の眼の前に現れた護送船団は、武器・弾薬・兵糧などを積んだ輸送船が500隻、村上水軍を主力とする300隻の護衛船で編成されたものでした。
織田水軍が大船団を阻止するために木津川口を扇状に守っていたところに、村上元吉が率いる村上水軍が縦に船列を組んで速度を上げて突っ込んでいきます。

村上水軍の多くは、小早船と呼ばれる小型で小回りのきく船で編成され、操舵技術も非常に優れていました。
そのため、織田水軍に迫ってきた村上水軍への応戦射撃は、全く意味を成しませんでした。
対する村上水軍は、織田水軍に近づくと焙烙玉(手投げ弾)や火矢を巧みに用いた攻撃を次々と加え、織田水軍の船を沈めていったのです。

やがて、村上水軍の執拗な攻撃によって織田水軍の安宅船(指揮官などが乗船する大型船)が次々と炎上して沈んでいきました。
これにより、指揮系統が麻痺した織田水軍は、成す術もなく壊滅状態となったのです。
結果として、村上水軍・毛利水軍の大勝利に終わり、石山本願寺に大量の救援物資の補給を許してしまう事となりました。

◆鉄甲船
九鬼水軍の九鬼嘉隆から木津川口の戦いに関する詳細な報告を受けた織田信長。
焙烙玉や火矢が効かない鋼鉄で覆った巨大な船『鉄甲船』を2年で建造するように命じます。

織田信長が要求した鉄甲船は、大きさが安宅船の倍以上(全長22m)、船体は厚さ3mmの鉄板で覆われ、大砲が左右に3門ずつと当時の技術から考えると想像を絶するものだったのです。
また、この巨体な船を動かすための動力に合計50の櫓と最大で800人の兵を乗せられたのです。

織田信長は、鉄甲船が完成するまでの期間(約2年間)を越後の上杉謙信や畿内周辺の対抗勢力を排除することに切り替え、石山本願寺攻略は一旦先延ばしすることにします。

◆雑賀の陣
1577年(天正5年)2月
これまで一向宗門徒として石山本願寺に味方してきた雑賀衆の一部と根来寺の杉の坊が織田側に帰順したことを好機ととらえた織田信長。
雑賀制圧へ10万の兵を従えて動き出します。

織田軍は、雑賀衆の住んでいる紀伊国内に侵攻すると、雑賀衆のゲリラ戦に苦戦を強いられます。
それでも兵数で圧倒する織田軍は、押し囲むように雑賀の城を次々と制圧していったのです。

雑賀衆の本城・雑賀城まで迫ってきた織田軍でしたが、雑賀衆の激しいゲリラ戦によって膠着状態が続くことになります。
長期戦はお互いにとって不利益と捉え、織田信長と雑賀衆の頭領・鈴木孫一との間で停戦合意が結ばれます。

協定の内容は、摂津で何かしらの憂いが生じた時は味方として駆けつけるなど、織田方に有利な条件が取り込まれていました。
また、織田信長が雑賀衆と協定を結んだことで、結果的に石山本願寺と雑賀衆(鉄砲傭兵)との関係を断ち切ることも出来たのです。

◆手取り川の戦い
加賀一向一揆を鎮圧して加賀国を平定することで北陸攻略を進めようとしていた織田信長。
北陸の動向を伺っている時、上杉軍に包囲され籠城中の加賀国・七尾城の畠山氏から援軍要請を受けます。
織田信長は、急ぎ北陸に拠点を置いていた重臣・柴田勝家を総大将として七尾城に向けて4万の兵を出陣させたのです。

これを好機に加賀国平定に持ち込もうとした織田信長に予想外の問題が発生します。
それは、敵軍ではなく加賀に向けて進軍途中の織田軍の内部だったのです。

軍議で、総大将の柴田勝家と犬猿の仲であった羽柴秀吉の意見が完全に分かれてしまったのです。
その後、羽柴秀吉は評議で自分の意見を全く聞き入れてもらえないことを理由に、織田信長の承諾を得ないまま離脱してしまったのです。

また、織田信長に援軍要請をしていた七尾城の畠山氏は、約1万5千人で籠城していたため兵糧の消耗が激しく、瞬く間に底をついてしまいます。
狭い城内には人が密集していたため、極めて衛生状態が悪化したことで疫病が蔓延していったのです。
飢えと疫病によって多数の死者がでていた畠山勢は、とても上杉軍と戦える状態にはありませんでした。

1577年(天正5年)9月15日
そんなことから内部からの離反が相次ぎ、七尾城の門が開放されてしまいます。
そこに上杉軍が一気に攻め込んで七尾城は落城となりました。

ですが、この七尾城が落城したことを進軍中の織田軍・柴田勝家は知りません。
また、上杉謙信と和睦した加賀一向一揆の激しい妨害もあって進軍が非常に遅れていたのです。
それから約1週間後、七尾城の落城を知らないまま柴田勝家率いる織田軍は、ようやく手取り川を渡り終えます。
間もなくして、七尾城の落城と手取り川近くにある松任城に2万の上杉軍が待ち構えていることを知った柴田勝家。

1577年(天正5年)9月23日
危険を察知した柴田勝家は、直ぐに全軍退却を命じます。
しかし時すでに遅く、織田軍を待ち構えていた上杉謙信が率いる上杉軍2万が一気に攻め込んできたため、織田軍は手取り川を背にして逃げ場がなく大混乱となりました。

この時の手取り川は、増水して流れも速かったため、織田軍の退却は思うようにできず背水の陣に近い状態だったのです。
これを好機と捉えた上杉軍の攻撃は一層激しくなり、逃げ惑う織田軍は手取り川に逃げ込むしかなく溺死する者が相次ぎ大破したのです。

◆信貴山城攻略と大和国統一
1577年(天正5年)10月
京を追放された足利義昭に呼応した松永久秀は、織田信長から離反して信貴山城に籠城します。
離反した背景には、織田信長が天王寺砦の戦いで討死した大和守護の塙直政の後任を筒井順慶に指名したのが原因だったと言われています。

織田信長は、織田信忠(信長の嫡男)を総大将とし、丹羽長秀、明智光秀、筒井順慶など4万の軍勢を信貴山城に送り込みます。
対する松永久秀の兵は8千と劣勢でしたが、堅固な信貴山城を落城させることは出来ませんでした。

しかし、信貴山城内で離反する者が出てきたことで内部からの崩壊が起き始めます。
その後、織田信長から降伏の交換条件として伝説の茶釜小天明平蜘蛛を差し出すように提案がありましたが、最後まで応じることはありませんでした。
降伏に応じなかった松永久秀は、自分の周囲に名品の茶道具を並べると城に火を付けて自害したのです。
信貴山城の落城と松永久秀の自害によって大和国を統一した織田信長は、筒井順慶に大和全域を任せたのでした。

◆石山本願寺攻め
1578年4月
羽柴秀吉を中心とした織田軍は、播磨平定を推し進めていましたが、次なる戦に向けて石山本願寺の動向を探ることにします。
織田信長は、嫡男の織田信秀を総大将とした10万以上の兵で石山本願寺周辺を完全に包囲します。

完全に包囲したことで石山本願寺に脅威を与えると、次に威嚇攻撃として周辺の麦畠を全て薙ぎ払うと火を付けて燃やしたのです。
石山本願寺は、圧倒的な兵数の織田軍による行為を静観して籠城することしかできませんでした。
これは、籠城している顕如や一向門徒衆に対して織田信長の恐怖と強大さを植え付けるためのものだったのです。

そして、2か月後の1578年(天正6年)6月に伊勢国大湊にある九鬼水軍の造船所から6隻の鉄甲船が大坂湾に向けて出港したのです。

◆淡輪沖海戦(雑賀水軍との戦い)
九鬼嘉隆、滝川一益率いる6隻の織田水軍・鉄甲船団が紀伊半島を沿うように大坂湾に向かっていると和泉の淡輪沖で雑賀衆が率いる雑賀水軍が30隻ほど待ちかまえていました。

雑賀水軍は、目視で織田水軍・鉄甲船団を確認すると、二手に分かれ速度を上げて織田水軍に向かっていったのです。
対する鉄甲船団も迎撃の準備を整えながら、同じく速度を上げていきます。

矢の形の陣形を組んだ鉄甲船団は速度を緩めることなく、次々と雑賀水軍の船にぶつかっていったのです。
雑賀水軍の多くは小早船だったため、鉄甲船に衝突した瞬間に砕け散って残骸だけが浮いていました。

鉄甲船による初の海戦は、僅かの時間で決着がつきました。
多くの船を失った雑賀水軍は、何もできないまま残った数隻の小早船で紀伊へ撤退していったのです。

ほぼ無傷のまま摂津の堺港に着いた黒く巨大な鉄甲船。
堺港には、今まで見た事もない巨大な船を一目見ようと沢山の人が集まり始めます。
当時の日本経済の中心ともいえる堺に鉄甲船を停泊させたのは、多くの人々の前に晒すことで織田信長の力を見せつけ権威を高めるという目的があったのかもしれません。

翌日、堺を出港した鉄甲船の織田水軍は、毛利から石山本願寺への海路を完全に封鎖するだけでなく、村上水軍と毛利水軍との戦いにも備えたのです。

第二次木津川口の戦い

1578年(天正6年)11月6日
大坂湾周辺を警戒していた織田水軍の偵察隊から、木津川口に向かってくる村上水軍と毛利水軍の大船団を発見したという報せが入ります。
この日のために万全の準備をしてきた織田水軍。
早速、鉄甲船団を中心にした陣形を組みながら木津川口に向かいます。

やがて、木津川口に対陣する織田水軍を目視した村上水軍は、第一次木津川口海戦と同様に高速で向かっていったのです。
織田水軍に近づいた村上水軍は、焙烙玉や火矢を使って鉄甲船に攻撃を加えます。

しかし、焙烙玉や火矢によって爆発炎上するはずの船が、ほぼ無傷の状態を保っていることに村上水軍の中で動揺が走り始めます。
それを察知した九鬼嘉隆は、村上水軍の小早船に向かって速度を上げて次々と体当たりしていきます。
そして巨大な鉄甲船の体当たりを避けきれなかった小早船は、雑賀水軍の船と同様に砕け散って沈んでいったのです。

また、周辺の小早船に対して鉄甲船から大量の鉄砲や大砲が撃ち込まれ、村上水軍の船は成す術もなく次々と沈んでいったのです。
村上水軍を破った鉄甲船団の織田水軍は、距離をとって戦況を見守っていた毛利水軍に速度を上げて向かっていきます。

毛利水軍に向かいながら鉄甲船から放たれた大砲が、毛利水軍の安宅船に命中すると轟音とともに爆発し、あっという間に沈んでいったのです。
この光景を目の当たりにした毛利水軍の士気は一気に下がり、逃げ出す船が続出します。
このままでは全滅すると思った毛利水軍は、退却命令を出しましたが、速度の遅い補給船などは次々と沈められていったのです。

この海戦で、織田水軍の鉄甲船は1隻も沈められませんでした。
しかし、村上水軍・毛利水軍は100隻以上が沈められてしまったのです。

第二次木津川口の戦いは、織田水軍による圧勝で終わりました。
これにより、石山本願寺は補給路を完全に断たれ、本当の孤立状態となったのです。

◆石山本願寺・顕如の降伏
唯一の補給路を断たれ、籠城戦を続けていくのが困難になった石山本願寺は、織田信長と講和します。
織田信長から提示された講和条件は、『期限までに石山本願寺を退去する。』という降伏ともとれるものでした。

同年の4月9日に石山本願寺の宗主・顕如は、嫡男の教如に石山本願寺を渡し、紀伊の鷺森御坊に移りました。
その後、石山本願寺に残った教如や一部の門徒によって占拠されましたが、情勢の悪化や説得工作によって教如たちも石山本願寺を退去したのです。

1580年(天正8年)8月2日
難攻不落の石山本願寺は、織田信長によって攻略されたのでした。
織田信長と石山本願寺の間で約10年続いた『石山合戦』は、遂に終わりを迎えたのでした。

この石山本願寺の跡地は、後に豊臣秀吉によって大阪城に生まれ変わります。

(寄稿)まさざね君

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