織田信長と戦国の貨幣経済

織田信長は、自領内で革新的な経済政策を行なったことで知られています。今回は戦国時代の貨幣経済を織田信長の領国運営に照らしながら考察していきたいと思います。

室町期の貨幣流通
室町期に流通していた貨幣は、主に中国、当時の明から流入していた永楽通宝であったと言われています。日本独自の貨幣は和同開珎に始まる皇朝十二銭がありましたが、銅銭の摩耗や私鋳銭と呼ばれる偽銭が出回ったこと、皇朝十二銭は改定されるたびに1/10の価値で旧貨幣が取引されていたことなどで貨幣価値が安定せず、11世紀の初め頃には金属貨幣は廃れ、米や絹を貨幣の代わりとした物品貨幣経済が主流となっていました。
しかし畿内を中心に高級品の購買などの際には、永楽通宝などの渡来銭が貨幣として用いられていました。

織田信長の経済政策
織田信長は、父・織田信秀が治めた津島・熱田を引き継ぎ、それらの港から得られる莫大な資金をもとに多くの兵を雇うことができ ていました。周辺諸国の軍勢が半農半兵だった当時、年中、合戦ができる織田軍は、戦国の世ではかなりの強みを持っていました。そのため、織田信長は、父の影響を受け、金、貨幣の重要性を強く認識していたと思われます。
織田信長の経済政策には、楽市楽座や関所の撤廃がありますが、清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と占領した地域に次々と拠点を移したことで、これらの経済政策を新興領地に植え付けて、拠点の経済発展を促しました。また街道の整備を行い、軍勢の移動だけでなく、物流の促進にも役立てています。
貨幣の重要性を知り、天下布武を目指していた織田信長は、畿内への進出、世界の国々との貿易を促進するため、物品貨幣経済から金属貨幣経済への転換を視野に入れていたかも知れません。

織田信長の撰銭令
当時の貨幣は、長年の使用で摩耗していることや中国からの渡来銭を模した私鋳銭が流通しており、粗悪な貨幣は、悪銭や鐚銭(びたせん)と呼ばれていました。ちなみにビタ一文のビタは鐚銭からきています。
人々はこのような悪銭の使用を嫌ったため、貨幣価値の下落、貨幣の供給不足が目立っていました。そこで室町幕府や各地の大名は度々撰銭令(えりぜにれい)を出します。
撰銭とは、悪銭を使用しないことを指します。以前の歴史研究では撰銭令により、悪銭の使用を全面的に禁止を指していると考えられていましたが、そうすると貨幣の流通量が減少してしまい、貨幣価値が不安定となると考えられるため、現在ではある一定の基準に該当する悪銭の流通を停止しながらも、撰銭を禁止して、悪銭の流通を許す、そして良銭と悪銭の混入比率を決め、貨幣価値の保護を行った法令だったと考えられています。また何度も撰銭令が出されたのは、合戦や飢饉により米価が高騰することもあったため、撰銭令を出して貨幣価値を担保することで、米価の抑制をしていたのではないかと思われます。

織田信長も1569年(永禄12年)足利義昭を奉じて入京した翌年に、撰銭令を発令しています。永禄十二年法とも呼ばれる織田信長の撰銭令は悪銭の流通停止や撰銭を禁止するだけでなく、銅銭を基準銭と減価銭に分け、その交換レートを決めています。これにより、使用を嫌われ、撰銭されてきた悪銭・鐚銭が貨幣流通に戻り、貨幣供給量を安定させることができました。
また合わせて、銅銭と金や銀の交換レートを定めることで、金や銀に通貨価値を付与(金1両=銀7.5両=銭1.5貫)しました。織田信長が定めた金・銀・銅による交換レートが元となり、元々希少価値のあった金・銀の貨幣化が進んだことで、江戸時代に「三貨制度」と呼ばれる貨幣制度が確立されることになります。

これらの法令の内容は織田信長の独創ではなく、信長より前に同様の法令を発令している大名や寺社などもありましたが、織田信長が京の都を中心とした畿内で大々的に発令したことは、とても画期的で、日本の貨幣経済史の中では、中世と近世の分岐点にもなり得る事象であったと考えます。

最近の研究では織田信長は、独創的な革命児でなかったと言われることが多くなってきました。しかし誰かが地域的に行なった良策を進んで取り入れ、信長自身の財力と組織力などを活用して、全国的に影響を及ぼす政策に昇華させることにかけては、やはり有能な為政者であったことは間違いないでしょう。

まとめ
織田信長は、父の政策を引き継ぎ、経済政策に取り組みます。そこで生み出される金銭により、兵を雇い、鉄砲などの武器を揃え、年中合戦ができる軍団を作り、畿内を統一していきました。貨幣の価値を知る織田信長は、悪銭を排除するのではなく、公に価値を設定することで流通を保護し、貨幣の流通量を確保して貨幣経済の安定を図ります。そこに金・銀と銅銭との交換レートを設定して、金・銀が統一された価値を持って、貨幣として流通する仕組みを作り、自身の更なる経済的安定を図ることができました。

皇朝十二銭の鋳造中止以降、金属貨幣が根付かなかった日本で、様々な人物が取り組んだ貨幣政策の集大成とも言える織田信長の政策が豊臣秀吉、徳川家康へと引き継がれ、日本に金属貨幣経済の浸透を促したと考えたいと思います。

(寄稿)kazuharu

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