織田信長の本拠移転から見る「デベロッパー」(土地開発者)という側面(尾張編)

 以前の記事で、武田信玄・上杉謙信・毛利元就など稀代の戦国大名が、代々続く「本拠地移転=居城(各勢力の政治経済・軍事における中心地)」を移転しなかった組織的や経済的などの理由について、筆者の雑感で書き連ねさせて頂き終わってしまいましたが、今回こそ数多な戦国武将(複数の本拠移転をやらない群衆)の中で唯一例外として挙げられる、皆様よくご存知の英傑・織田信長(1534~1582)が、複数回に渡り本拠移転を敢行したことについて書き連ねたいと思います。
 
 信長が尾張守護代・織田氏の庶流である織田弾正忠家の嫡男として、年少(幼名:吉法師)にも関わらず那古野城城主の身上から戦国の世を出発し、その後、政治情勢などに応じて清洲城・小牧山城・岐阜城、そして安土城、(実現はしなかったですが「大坂城移転」構想もあり)へと複数回に渡り、全国規模で本拠移転を敢行していったことはあまりにも有名でありますが、その信長の本拠移転構想の指針を教授したのは信長の父であり、尾張国内という極めて限定的な本拠移転を繰り返した織田信秀(1511~1551)であったことは、以前の別記事に紹介させて頂いた通りでございます。
 信秀および10代の惣領息子である信長が活動していた頃の織田家(弾正忠家)は、飽くまでも織田氏の分家(清州三奉行の一員)であり、領国と城地=農業生産高も尾張国(愛知県西部)の一部を支配下に置く身上に過ぎませんでしたが、その限定的な領国の中で、経済流通の要衝である「津島」と「熱田」があり、信秀がその両方を把握し、そこから上がって来る莫大な海運収益、いわゆる『商業流通の力』を手に入れることにより、信秀は積極的な軍事行動を採ることができ、一時期には、斎藤道三(利政)が治める美濃国(岐阜県南部)の西部の一部、三河国(愛知県東部)の安祥(安城)まで支配領域を拡げることに成功。主家である清洲織田氏(大和守家)を凌ぐほどの勢力を信秀は築き上げており、後年「尾張の虎」と称せられるほどの名将とされています。
 信秀が軍事行動(外征)で力を発揮したことは以上の通りですが、決して猪突猛進の武力一辺倒の武将ではなく、寧ろ先述のように津島・熱田の経済的重要性を深く理解し、その把握に努める経世にも明るい人物であり、刻々と変化する情勢に柔軟に対応する合理的思考および発想法を持つ優れていた人物でもありました。その好例が本拠移転であります。

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 信秀は、父・信定(これも経済感覚に優れた陰の大物です)が津島を抑えるために築かれた「勝幡城」(1526年頃)を初本拠とし、次いで尾張国内の中央政府というべき清洲城に近い尾張今川氏(駿河今川氏の一族)の「那古野城」(1538年)を謀略で奪取、こを本拠として尾張中央部の愛知郡を制圧。今度は熱田の支配権を固めるために「古渡城」(1539年)に本拠を遷し、最後は当時東海地方最大の戦国大名・今川義元に迅速に対抗するべく「末森城」(1548年)を築城、本拠として、同地で1551年、42歳で生涯を終えています。
 信秀の他の業績の詳細については、「信長および織田氏研究の泰斗」でいらっしゃる歴史家・谷口克広先生の名著『天下人の父親・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか』(祥伝社新書)がございますが、信秀は勝幡城から始まり、終わりの末森城を含め4回も本拠移転をしており、何れも無闇に移転をくりかえしたのではなく、『戦略的(特に経済拠点の把握)』に沿って合理的に行っていたのであります。

 先述のように信秀の跡を継いだ信長は、父の政策を模倣しつつも、信秀以上に大々的かつ本格的に実施していきました。1544年に信長(当時弱冠10歳)は、信秀から那古野城を譲られたと言われ、その少年城主となったことで戦国武将としての本格的キャリアをスタートさせています。そして1555年に、主筋の清洲織田氏(大和守家、下四郡守護代)を滅ぼし、その本城である清洲城を奪取して居城とするまでの11年間、那古野城を本拠としています。唯、当時の那古野城は砦程度の小さな城郭である上、周囲は湿地帯も多くあるので大規模な城下町を形成するには困難な土地柄であったと言われています。
 因みに、信長の元祖・一代記である『信長公記』に、青年の信長が短袴で荒縄を腰に巻くという衣装で城下を練り歩き、奇行乱行を繰り返し「大うつけ者」と周囲から蔑視されていたことが書かれていますが、これは信長が那古野城主の頃であります。しかし、一方でこの時期に、後に信長の重臣となる丹羽長秀・池田恒興・前田利家・佐々成政など有能な若武者(有力土豪の部屋住み)たちを側近(小姓=職業軍人の先駆け)として召し抱え、人材登用も積極的に行っていたこともまた事実であります。
 
 信長が清洲城を奪取、同城に大改修を加え、新たな本拠地したのが、先述の通り1555年であります。清洲城は、1405年に尾張守護大名であった斯波氏によって築城されたのが始まりであり、1478年に尾張守護の中心地となった以降、尾張国内(特に下四郡)の正真正銘の本拠地として重きを成すようになりました。
 江戸期以降は、天下人・徳川家康の命令により、1610年からの3年間で、尾張藩(徳川御三家)の本拠が名古屋城(旧:那古野城)に移転してしまったので、尾張国の中心地としての清洲城とその城下町の役目は終わり、現在でも名古屋市が愛知県の中心地となっていますが、信長在世当時の清洲城は、現在でいうところの県庁所在地のような存在であり、尾張国内の政治・経済・交通(丁度、地理的にも尾張国内のほぼ中心地)の核心であり、信長が一支城に過ぎない小規模の那古野城を出て、清洲城を本拠地にすることによって尾張の政治・経済を抑えると共に、戦国大名(正しく下剋上の成功例の1つ)として自立したことを内外に喧伝したのであります。
 信長が清洲城を本拠地としたのは、約8年間(1555~1563)でしたが、この期間で信長は、長年織田氏の強敵であった駿河の今川義元を桶狭間の戦い(1560年)で討ち取り、天下にその勇名を轟かせ尾張国の支配権を確固たるものにし、また1562年には今川氏から自立した三河の新興戦国大名・徳川家康(当時は松平元康)と清洲城で軍事同盟、いわゆる清洲同盟を結び、東方を固めることにも成功。信長は父・信秀の宿願であった美濃制圧に着手するようになります。そこで、翌年の1563年、信長は本拠地を清洲城より尾張北東に位置する小牧山の地に城を築き、本拠地と定めました。これが小牧山城であります。
 因みに、本能寺の変(1582年)で信長と当時既に織田氏の家督を継いでいた織田信忠が横死した後に、秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の重臣たちで織田氏の行末(即ち、天下人の座)を決めるための談合「清須会議」が清洲城にて催され、その結果、秀吉が天下人への座へ大きく前進したことを決定付けたことは周知の通りであり、清洲城はその後の日本の行末を決めた大舞台になったのであります。
 そして、清洲城以外にも、かつて信長の本拠地が歴史の大転換点(日本建築史の変換点、そして1584年の小牧長久手の戦いの舞台)となったこと強いて挙げるとすれば、それが以下から記述させて頂く小牧山城であります。

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 信長の積極的な本拠移転は父・信秀に倣ったものであったことは何度も記述させて頂いておりますが、信長の本拠移転が信秀よりも本格的かつ精巧であった点を1つ挙げるとすれば、信長は当時、未だ誰も見向きもしなかった地に、大規模な城郭を築き、しかも本格的な町割(城下町形成=経済活性化)も行って本拠地としたことでしょう。つまり現代でいうところの『デベロッパー(土地開発者)』という他の戦国大名よりが持っていなかった『並外れた能力』を信長は発揮したということであり、そのが、信長が戦国大名になって初めて築いた小牧山城への本拠移転とその城下町造りであります。
 因みに信秀は在世当時、信長のように未開の小牧山への本拠移転を行い、大々的に一から城郭と城下町を造るということは、(信秀の大名としての権威が整っていなかったのが原因と思われますが)、行っておらず、飽くまでも既存の経済拠点(熱田)を抑えるという目的で本拠移転を行うという規模に留まっております。
 
 筆者の好きな著書の1つに竹村公太郎先生と歴史地形研究会の皆様が監修・執筆された『日本史の謎は地理で解ける』(宝島文庫)というのがありまして、その第1章に「織田信長・豊臣秀吉 天下人の都市計画」(本章著者:治部左近氏)と銘打って、冒頭から信長の小牧山城への本拠移転について詳細に記述されています。
 その本文を引用させて頂き筆者なりに要約させて頂くと、信長はそれまで軍事面として使われなかった城郭を『見せる城=政治的アピール(筆者注:一種のランドマーク)』として利用することに着目し、その好例なのが、信長城郭の集大成である安土城とその城下町であることは有名ですが、そのプロトタイプ(原型)が、信長が美濃攻略を果たすための本拠地となった小牧山城とその城下町であります。
 先述の『見せる城=政治的アピール』とはどういう意味か?それは人々が目を見張るような「斬新な城郭」と、それに連なる城下町を造り、経済力と権力の強さを見せつけるということであります。後年の安土城が豪華絢爛の高層天主閣と横5mを越える幅広い大手道、その両端には「武家屋敷(羽柴秀吉や前田利家の屋敷)」と「総石垣」で大城郭が構成されていた事は、宣教師たちの証言や城跡を見れば明確なことですが、小牧山城も近年の発掘調査で、山の南側に横幅5mを越える大手道、そして総石垣で完成された大城郭であったことが判っています。
 因みにそれまで日本国内の殆どの城郭は、飽くまでも土塁などで造られた城砦、つまり土造りの城が主流であり、最初に総石垣で造られた城郭は小牧山城であると言われおり、その城郭建築を指示したデベロッパー・織田信長は、日本建築史に大きな足跡、即ち『近世城郭の先駆者』という栄誉を遺したのであります。
 兎も角も、当時では斬新であった総石垣の城郭を築くことによって、信長は内外に対して織田氏(経済力)の強さを政治的にアピールしたのであります。
 信長が、濃尾平野にある独陸丘陵・標高86mの小牧山に大規模な城郭を築くまで、その山と周辺の平地(濃尾平野の一端)の詳細な先史は不明でありますが、かつて山中には龍音寺(1492年建立の浄土宗の寺院、通称:間々観音)が鎮座していたことは確かであり、信長がこの龍音寺を移転させ、小牧山に石垣で四方を囲まれた城を築いた上、山麓南側に、長方形街区と短冊形地割(いずれも後の城下町の基本となる型)で区画された、大規模な城下町を設計しています。
 山麓北側および同東側および城下町の東側中心に「新町」・「小牧池田」などの武家町を造り、重臣や馬廻(小姓)衆など織田軍の主力兵力を集住させ、織田軍の強みの一つである「即断の軍事行動」を採れるようにし、城下町西側には、上御園町を区画、現在の地名でも紺屋町・鍛冶屋町として遺っているように、清洲から来た商工業者が主に集住していたと言われています。現在の小牧市の礎は、信長が小牧山に本拠地を移転した時に造られということになります。
 「常備兵」(軍事)とそれを養うための財力を産む「商工業」(経済)という2つの要素をセットにして一から大きな城下町を造るというのは、如何にも重商主義であった信長らしいですが、石垣造りの小牧山城と大きな城下町を本拠地として、信長は美濃斎藤氏やその麾下の国人衆に尾張織田氏の威容と経済力を見せつけ、斎藤方の有力国人であった鵜沼城の大沢基康など東濃の国人衆を調略投降させてゆき、美濃攻略に邁進していったのであります。そして、小牧山城を本拠地として4年後の1567年に、斎藤氏の牙城であった稲葉山城とその城下町・井ノ口の攻略に成功。遂に念願の美濃国制圧を果たしたのであります。
 攻略した稲葉山城を『岐阜城』と改め、次の本拠地として決定した信長はあっさりと小牧山城を廃城とし、それに伴って小牧の城下町も縮小されました。土地に何ら未練を見せる気配のなく、機敏に本拠地を移してゆくという並外れた行動力も信長らしい戦略姿勢であります。小牧山城を本拠地とした期間は1563~1567の4年間でありました。

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 信長が尾張の州都であった清洲を棄て、片田舎の小牧山へ本拠地を移転させる際に、以下の有名な逸話があります。皆様もよくご存知だと思います。
 信長の家臣たちは、清洲城から小牧山へ移転に難色を示すことを分かっていた信長は、最初小牧山より更に北にある丹羽郡二ノ宮山(愛知県犬山市)へ城を築き、そこを本拠地へ移転させることを家中に命令しました。当然、家臣団からは二ノ宮山への移転には反対者が続出、それを待っていましたと言わんばかりに、信長は「ならば清洲に近い小牧山を本拠とする」と尤もらしい折衷案?を出して、家臣団の不満を見事に抑えて、小牧山へ移転が円滑に決まった、というものであります。何とも感心するほどの手回しの良さ(悪く言えば老獪さ)でございます、信長公。
 上記の信長の巧みな人心操縦術の逸話の真偽はわかりかねますが、織田氏を含め他の戦国大名家の家臣団(国人衆=武装農場主たち)は自分の土地や屋敷を切り離され、他所へ遷る(城下町への集住)のを本来厭うものであり、ましてや労力や財力を費やす本拠移転は嬉しくないものだったのです。
 もし、先述の信長が家臣団の気分を小牧山城移転へ向けさせた逸話が本当であれば、信長という天才は、普段、田畑を有し農作業に勤しむ家臣団=国人衆(農兵の親玉)たちを抱える脆さ、即ち田植えや稲刈りなどの「農繫期には軍事行動が出来ない」ということを熟知しており、信長自身とその家臣団ごと全部を本拠地移転させることによって、家臣達から農業を切り離し、全員を悉く城下町へ集住させることによって、随時行軍可能である機動力優れた『常備兵』を編成していったのです。
 これが有名な信長政策の1つであり歴史の教科書にも掲載されている「兵農分離」であります。経済評論家の上念司先生は、信長の兵農分離は不徹底なものであったと評されておられますが、何れにしても信長は小牧山城への本拠移転で、それまであまり注目されなかったであろう小牧の地に石垣の城と大きな城下町を築き、デベロッパーとして土地価値を上げる経済政策を兼ねている一方、大農場主で農兵の親玉でもあった家臣団を農地から切り離し、城の麓にある武家町に住まわせて「常備兵」とする軍団編成、有名な「兵農分離」(軍事改革)も兼ねていたのであります。
 兵農分離を実施し、普段から城下町に多くの家臣や足軽を常備兵として住まわせおくと、必然的に莫大な費用(人件費)が必要となってきますが、先祖代々経済の要地を制し、商工業および流通業の力と重要性を熟知している信長は、その問題も解決しております。それが有名な自由商業の魁である『楽市楽座』であり、それを公式的に行ったのが小牧山城の次の本拠地、岐阜城であります。

 しつこくも更に小牧山城についての余談を紹介させて頂くと、先述のように、1567年に信長が岐阜城へ本拠移転した後は小牧山城は廃城となりましたが、その17年後の1584年、信長亡き後に天下の覇権を確立した羽柴秀吉と、東海・甲信5ヶ国を有する有力大名・徳川家康が干戈を交えた「小牧長久手の戦い」の折、旧小牧山城は家康の本陣となり、大軍の羽柴軍と対峙。更には家康の根拠地である三河を急襲するべく編成された羽柴軍別動隊(大将:羽柴秀次)を、家康は小牧山本陣から出撃して長久手の戦いで別動隊を撃破、羽柴方の池田恒興・池田元助父子、森長可など信長以来の猛将を討ち取るほどの大勝利を治めています。
 局地戦とは言え、秀吉より明らかに兵力が劣る家康が、秀吉の大軍を長久手の戦いで撃破したことは、家康の長い戦歴の中で、栄えある戦功の1つとなり、後に天下の諸将から「家康は強い(野戦上手)」という信用を得て、天下人・徳川家康の覇権を確立できた大きな転換点になった戦いでした。
 江戸期幕末の大学者・頼山陽の名著「日本外史」の中で、「公 (家康) の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして、小牧にあり」という有名な一文があることは有名であり、家康にとって小牧長久手の戦いでの勝利はそれほど後世の歴史に大きな影響を持っていたのであります。

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 思い返してみますと、豊臣秀吉・徳川家康という2英傑は、天才・織田信長が創り上げた基盤を受け継ぎ、信長の驥尾に付す形で、各々天下の覇権を確立しましたが、秀吉は清洲城を舞台にして行われた「清須会議」で、譜代宿老の柴田勝家を退けて織田政権の後釜に座って豊臣政権の礎を築き、対して家康は小牧山城に拠って、長久手の戦いで秀吉の大軍を撃破することによって天下人への勇躍へ繋がってゆくことなります。即ち秀吉・家康の両英雄もかつて、信長が本拠地とした『清洲城』と『小牧山城』を礎にすることによって天下の覇権を確立したということが言えるのであります。
 信長の本拠移転政策は、先述のように、後の城郭建築史と都市(城下町)計画という分野別の歴史にも大きな影響を与えたことも確かでございますが、上記の秀吉・家康の飛翔の場所を提供することになり、その後の日本の行方も決定付けたことに寄与していたのであります。
 
 今回は、信長の本拠移転については、那古野・清洲・小牧山の尾張国内のみの記述になりましたが、次回は岐阜城・安土城への本拠移転について紹介させて頂きたいと思います。

 
(寄稿)鶏肋太郎

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