本能寺ってそもそもどんなお寺?宗派は? 織田信長の最期の地

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本能寺の概要

本能寺の変の舞台となってしまったこの寺院ですが、そもそもどんなお寺なのでしょうか?
本能寺(ほんのうじ)は京都市中京区下本能寺前町にあり、宗派は法華経です。
1415年(応永22年)に本門流の大本山、妙顕寺の僧の日隆が油小路高辻と五条坊門の間に本能寺を建立したのが始まりです。
本能寺は度々火災に見舞われ、洛中を移動しました。
しかし、室町時代後期の頃には本能寺は町衆信徒を中心として勢力を伸ばしていったのです。
安土桃山時代には鉄砲や火薬の仲介に動いたりとしていました。
その背景には瀬戸内の港市から屋久島まで教線を延ばした事にあります。
その頃には織田信長の洛中宿館として本能寺が使用されていました。

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法華宗とは?

法華宗とは法華経の教えを信奉してその教えに従った行動をする宗派の事です。
「法華経」の教理の中心の考えは二乗作物・声聞・縁覚の二乗も菩薩と同様に仏の悟りを開く事ができるという事と、久遠の昔に真実の悟りを成就して仏となった事と教えられています。
中世日本では鎌倉時代の日蓮を開祖とする日蓮宗が代表的で、その流れは現代にも通じています。
現在では創価学会・立正佼成会が中心として信仰されています。

本能寺の変

1582年(天正10年)に起きた本能寺の変はご存知だと思います。
かの有名な戦国武将である織田信長が家臣の明智光秀の謀反に逢い、志半ばで自刃を遂げた事件です。
この時織田信長は備中高松城攻めを家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じていました。
そして、事件当事者である明智光秀には羽柴秀吉の応援を命じていました。
織田信長自身は森欄丸をはじめとする数名の家臣を率いて本能寺を宿館として滞在していました。
織田信長の嫡男である織田信忠は近隣にある妙覚寺を宿舎としました。
本能寺の変の前日に織田信長は公家や町衆らと余暇を楽しんでおり、まさか明智光秀が謀反を企てているなど夢にも思っていなかったのではないでしょうか。
高松城攻めの戦に勝利を確信していた織田信長に向けて明智光秀は1万余りの兵を率いて6月2日早朝4時半頃に奇襲を仕掛けました。
織田信長の警護は森欄丸をはじめとするわずかな小姓など数十人程度でしたので多勢に無勢。
流石の織田信長もあっけなくこの世を去りました。
ただ、遺体は見付からなかったと伝えられています。

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本能寺のその後

本能寺の後日談として、後に豊臣秀吉の命により本能寺は現在の場所に移りました。
寺町が形成され、寺内には織田信孝建立の織田信長主従の墓が移されて現在に至ります。

(寄稿)土佐武士の子孫

本能寺とは 京都・本能寺の歴史 織田信長との本当の関係

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