織田信長は革命児である。
大体の人間がそのように異口同音述べているのである。
確かに一般人や歴史学に関わらない学者のなかではそのような評価であるが、歴史学界では現在信長=革命者という図式は崩壊しつつある。
今回の記事では、歴史学界では何故信長は革命児ではないという評価が出てきているのかを説明したいと思う。
信長の政策は革命的か?
信長といえば、楽市楽座が評価されている。
この政策はあたかも信長がはじめたものであるかのように囁かれているが、実はそうではない。
実際には戦国大名一般に採られていた政策であったのだ。
以下、長澤伸樹氏の成果を引用して紹介していきたい。
さて楽市楽座が信長の先駆ではないことは六角氏の楽市令を引用する形で指摘されているが、六角の楽市令は事実上成功していないという見解が多数派を示していた。
しかし、こういった楽市法令の事例を他の地域でも丹念に拾い、捜したのが、長澤伸樹氏である。 長澤氏によると、楽市というのは、「各大名領国における領域支配と密接にかかわって、平和状態の確率や経済特区としての市場のあり方を一時的に強調ないし可視化するレトリックにすぎない。
と同時に、政治・経済などの社会情勢や、市場を取り巻く地理環境、あるいは大名権力ごとの支配理念に対応してさまざまに変化する、きわめてローカルな性質を帯びていた」と定義付けているのである。
つまるところ、戦国時代に普遍的に見られる概念で、信長の革新性から来る都市政策ではないということである。
その根拠として、今川氏、北条氏、松永氏などの領国の楽市令を事例としている。
各々詳述はしないが、こういった事例から長澤氏は楽市令の革新性について、疑問を呈していたのである。
しばしば経済学者や歴史のトンデモ本には教科書に載っているからといって、楽市令による経済政策をあたかも事実のように語るが、現在学界ではこのような事実が提出されていることを考慮しておいてほしい。
信長の権威性~室町将軍との関係から~
織田信長といえば、室町幕府を利用するかたちで、将軍を手駒として、天下に君臨したというイメージが定着している。
しかし、これもとんでもない。
現在では疑問が呈されているのである。
従来では足利義昭の評価がマトモにされておらず、興味関心の的にもならなかったが、最近では『足利義昭』と題した論文集も出版されているぐらい成果が充実しつつある。
また三好氏の評価が変動している点も、永禄12年以降の室町幕府を評価する上で重要なってくる。
では実際にその研究を見てみよう。
端的にいうと、永禄12年以降の室町幕府は、足利義昭を頂点とした政権であることに間違いはない。
では信長の位置づけはどこになるかというと、足利義昭を下から支えしている立場である。
つまり、義昭・信長連合政権ということになるが、事実はそう簡単では無いようである。ここで関与してくるのが、三好氏である。
三好氏は、三好長慶が存命の時代に、将軍を補佐する、むしろ天下(京都を中心とする畿内一円を指す)を牛耳っていたと近年の研究では指摘される。
この三好氏は元亀2年ごろまで足利政権下で実力を持っていた。
長慶の息子である義継、松永久秀は義昭が起こす軍事に関与する場合において、信長と並列の関係に扱われていることが同時代史料から明らかになっている。
つまり、義昭を何人かの戦国大名で下支えしている体制であったのだ。これを「連合政権」と呼ぶようだ。
なので、信長がいきなり権威を振りかざし、将軍をも圧倒していたということは事実無根なのである。
もちろん、室町将軍が追放されて以後信長は天皇の権威を借りつつ、日本全国へ影響を及ぼしていたが、あくまでも朝廷権威の衣を来た状態である。
以上のように信長が革命的で、異端児で、などと言う評価はカビ臭いものであることを理解してほしい。
もちろん、納得されない人もいるかもしれないが、これが現在の歴史学界での信長の評価である。
こういった議論を無視した上で信長を語ることは一端待ったほうが良い。
ただし情報を取捨選択するのは、読者の方である。
私の紹介だけでは納得されないという方のために、参考文献を下記しておいた。
これをご参照いただければ、大まかに現在の信長論を掴むことができるだろう。
これは一端を紹介したにすぎないので、まだ信長問題を執筆し付けようと思う。
To be continue…
参考文献
長澤伸樹「楽市」再考 : 中近世移行期における歴史的意義をめぐって」(『市大日本史』19)
天野忠幸『三好一族と織田信長』戎光祥出版
平井上総「織田信長研究の現在」(『歴史学研究』955)
(寄稿)証秀
→二次資料について~真実を見極めるための知識~
→天下布武「織田信長」の好きになれないその理由
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