辺境/逆境に拠って天下の覇者となった傑物たち~秦の始皇帝、漢の劉邦、そして徳川家康

 *はじめに:はからずも長文となってしまったので、お読みになってくださる際は、ご自分のペースでお読み下さいませ。

 最近NHKオンデマンドで、司馬遼太郎先生原作のNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』を余暇に見返しているのですが、その第1話で、伊東四朗さん演じる秋山久敬(八十九翁。本編主人公の秋山好古・秋山真之兄弟の父親)が、子供たち(信三郎と淳五郎)の前で説教を垂れるシーンがあります。本ドラマをご覧になった方でしたらご存知だと思いますが、その内容が以下の通りです。

 『信(注:信三郎。即ち後の秋山好古)、よう聴け。古今の英雄豪傑は皆、貧乏の中から生まれた。つまりアシに働きがないのは、子のためにやっておるのじゃ。親が偉すぎると子は偉ろうならん。食うだけは食わせる。それ以外のことは、自分でなんとかおし!』(スペシャルドラマ『坂の上の雲』第1話より)

 以上のように、屁理屈にも採れる説教を大マジメにしている伊東四朗さん演じる秋山久敬お父さんの面白味を感じる一点景となっていますが、彼が諭しているように、(皆とは言いませんが)、貧乏あるいは逆境・辺境から身を興して、歴史に名を遺す英雄偉人が多々います。
 代表例として、近世日本では貧民層の出身とされている「豊臣秀吉」、現代になると松下電器産業株式会社(現:パナソニック株式会社)を創設した「松下幸之助氏」がおり、外国では、中国明帝国の初代皇帝・「朱元璋」、第16代アメリカ合衆国として有名な「エイブラハム=リンカーン」も、米国ケンタッキー州の農場にある貧相な丸太小屋で生まれ育つほど凄惨な幼少期を送っています。この4人物は、各分野で第一級の偉人となり、その名を歴史に刻んでいることは周知の通りでございます。
 上記の豊臣秀吉やリンカーン以外でも、貧乏・逆境や辺境の出自を飛躍のバネとして、一大飛躍するという第一級の人物たちは古今東西問わず、数多いらっしゃいますが、やはり幼少・若年期より逆境に身を置き、多くの艱難辛苦に耐えた方々は、器量や精神力(忍耐力)が人並み以上に鍛えられ、(前掲の秋山久敬が言うがごとく)、英雄豪傑となっていくのでしょう。
 
 上掲の人物たち以外に逆境・辺境という地点に拠り、英雄豪傑=名実ともに『天下人』となった3英傑を例として取り上げ、彼らが如何にして、歴史に名を刻む英雄豪傑になれた要因を詳しく探ってゆきたいと思います。
 その3人とは、表題にある通り、古代中国史の英傑である『始皇帝』『劉邦』、そして日本戦国期の天下人の『徳川家康』であります。どうやら彼らが天下に君臨できた大きな理由の1つとして、当時は逆境・辺境と周囲から土地でありながら、同地を彼らが「上手く活用した」からであります。

(*以下は、秦や漢の樹立の古代中国史が長々と続きます。ご了承くださいませ。)
 
 あの広大な中国大陸の全土統一という前人未到の偉業を、史上初めて成し遂げた秦の『始皇帝(秦王:嬴政(えいせい)。紀元前259年~同210年)』という人物を、学校の授業では必ず習いますが、近年では漫画家・原泰久先生原作の大人気漫画『キングダム』(集英社)の重要登場人物の1人としてもお馴染みとなっています。この漫画は、秦王・嬴政、彼に仕えた伝説的な名将・李信を中心に物語が展開しゆき、彼らが率いる秦軍が強力な軍事力を以ってライバル国家を撃破してゆく痛快武侠伝(アクション漫画)ですが、史実でも秦軍が李信を代表する名将や勇猛果敢な兵を従えていたことも秦帝国の樹立の原動力の1つになったのも疑いようのない事実でありますが、それ以外も秦には、色々と優れた部分がありました。
 漫画『キングダム』の大ヒットによって、現代人にも馴染みが深くなっている中国古代の秦王(嬴政)こと後の始皇帝が、史上初の大快挙(大陸の天下統一)を成し遂げた理由として、逸材であれば他国出身者でも政権や軍部中枢の要職に就ける「革新的な人材登用」、仁愛に基づく徳治主義=儒教思想を排除し徹底なる法治主義制度に基づき官民を統御する「法令遵守制度」、その法治主義を維持運営するために確立された「官僚制度」などが挙げられますが、それらに匹敵して秦王とその国家が有していたのは、優秀な『治水技術・土木技術』と、その技術によって産まれた『豊穣なる穀倉地帯=経済力』であります。
 そもそも中国史上初の統一王朝を樹立した秦帝国の「秦」という勢力が興ったのは古代中国(紀元前900年頃)における北西辺境の地域であった『秦邑(現:甘粛省天水市)』という場所であり、紀元前800年前半には、現在の西安市(旧:長安)を省都とする陝西省(せんせいしょう)まで勢力圏を伸張させたことにより、長らく大陸北西辺境は「秦」と呼称されていました。
 先述のように古代中国における北西辺境地を拠り所にしていた秦王国(秦人たち)は、黄河中流である大陸中心地(現:河北省・河南省や山西省一帯)、即ち「中原(ちゅうげん)」の魏・韓・趙といった王国や人々からは、『西戎(西方に住まう野蛮人)と接する辺境の連中』と蔑視されていた存在でした。
 事実、当時中国大陸西部辺境とされていた「秦(陝西省や甘粛省)」、その南方に隣接する大山塊に覆われ世間と隔絶されていた秦王国の版図に入っていた「巴蜀(四川省)」、秦と巴蜀より更に西方、即ち西域の「青海湖一帯」、中華民族と慣習・思想を大いに異にする少数民族であり遊牧生活を生業としていた『羌族(チャン)。西羌とも』『氐(テイ)』(共にチベット系部族)が蟠踞していました。
 『少数民族=異民族=西域の野蛮人/西戎』と相剋(雑居と衝突)を繰り返している秦王国という存在は、黄河中流域の中原勢力である韓王国らの眼には、辺境に棲む野蛮人にして不気味な戦闘民族としか映らなかったでしょう。しかし、一方の秦王国からすれば、上掲の遊牧生活を生業とする少数民族と雑居や交流することにより、彼らが生産する優秀な「軍馬」を多く入手することができる地理的利点の1つを秦王国は持っていたのです。
 騎射術に通暁(いわゆる「胡服騎射」)する少数民族と数多な戦闘を繰り返した秦軍も大いに鍛えられてゆくという共進化を果たし、秦王有する軍団は、騎兵・射術に優れた最強軍団となり、秦王・昭襄王(紀元前250年代後半)には名将・「白起」や「司馬錯(しばさく、歴史書「史記」の著者・司馬遷の祖先)」が秦勢力の拡大に貢献し、昭襄王の曾孫に当たる秦王・嬴政(始皇帝)期には「王翦(おうせん)」・「李信」・「蒙恬(もうてん)」といった将軍たちの名采配によって、韓・魏・趙・燕・斉・楚といったいわゆる六国(秦を除く戦国七雄の王国)は皆、滅ぼされることになります。
 戦国期(紀元前5世紀~同221年)まで、中国大陸中央部に群雄割拠していた秦以外の六国の王者と官民は、西戎と相剋している大陸西部辺境の山間地を本拠地とする秦王国を「野蛮」と卑下していたのですが、むしろ秦は、その地理的条件の1つを活かし、西戎との共存・戦闘を、代々の秦王が繰り返してきたことにより、西戎から優秀な軍馬や精強な戦闘力を養って、他勢力を圧倒するほどの軍事力を作り上げていたのです。そして、秦王・嬴政の代に、中国大陸を統一する大事業を成し遂げるになります。

 中国大陸中央部(中原)の王国の群れから隠れ棲むように、大陸最西端で長々と軍事力を蓄えていた秦王国ですが、それ以外にも秦が西部で代々着手した内政大事業があり、この大成功も、他勢力を圧倒するほどの経済力を保持することに成功します。それこそが、蜀(成都盆地)を穀倉地帯と変貌させた古代ダム『都江堰(とうこうえん)』の落成(紀元前251年)、関中台地の用水路『鄭国渠(ていこくきょ)』の開削(同236年完成)の治水大事業であります。
 
『蜀へ入るのは、青空を上るよりも困難である』(題名:蜀道難。原文:蜀道之難難於上青天)

 上記のように、巴蜀の厳しい地理的環境を表現したのは、秦帝国よりも遥か後年の唐王朝全盛期(西暦8世紀)の詩人・李白ですが、その空より行くのが困難である巴蜀(現在の四川省の成都地方と重慶地方)は、紀元前316年、秦の恵文王期に将軍・司馬錯が制圧したことに同地は秦王国の版図となりました。
 蜀という字には「虫」という字が入っており、虫程度の連中しか住んでいない、巴という字は、「ミミズが這った字が転化」した思われるほどの蛮地に過ぎないと、当時の中原の人々は思っていたのです。
事実、秦王国は当初、大山塊に四方を囲まれ大陸中央部と隔絶され、虫やミミズ程度の生物しか棲息していないと思われていた巴蜀の地を秦の罪人流刑地として利用していました。その代表例として、秦王・嬴政(始皇帝)の実母・趙姫(帝太后)と密通した偽宦官の嫪アイ(ろうあい)は嬴政に処断され、嫪アイの一派(家来たち)、その総数4千家以上は家財没収の上、蜀の地へ流罪となっています。
 巴蜀の地は、辺境中の辺境である流刑地・不毛地帯とされてきましたが、秦王・昭襄王期に、蜀郡太守(地方長官)である李冰(りひょう)・李二郎父子が2代に渡って、先述の灌漑施設/古代ダムである『都江堰』(2000年に世界文化遺産に登録)を苦心惨憺の末、紀元前251年に完成させたことにより、蜀の中心地である成都平野は、『天府の国=天から与えられた豊穣の地』と称されるほど大陸有数の穀倉地帯となり、秦王国の巨大食糧庫の役割を果たし、秦の大規模軍事行動の原動力となってゆきます。
 
『蜀既に属して、秦益々強く、富厚にして諸侯を軽んず』(「戦国策 秦編」)

 西戎の生息地・大山塊に隔絶された地・秦人の流刑地と蔑視されていた巴蜀を富貴の地に切り拓いた秦王国の圧倒的な強さを上記のように表現しています。

日本でも小説やゲームでお馴染みの三国志期(西暦3世紀前期~中期頃)、徒手空拳の身上から有力君主となった劉備玄徳、その名宰相である諸葛孔明らが巴蜀の地に拠って蜀漢帝国(首都・成都)を創設し、中原の大勢力・魏(曹操とその一族。首都:鄴)と江東の有力勢力・呉(孫権。首都:建業)らと対抗、即ち「三国鼎立・天下三分」することは、あまりにも有名ですが、この三国志当時の巴蜀は『国富み、民強く、戸口100万』(三国志 龐統法正列伝)と謳われるほどの繁栄ぶりでした。
世間と隔絶された地形ながらも巴蜀は正しく天府の国であり、その殷賑ぶりの礎は、紀元前251年、秦王国の蜀郡太守であった李冰によって構築された都江堰にあったのです。   
因みに、三国志期の蜀漢帝国の丞相となった諸葛孔明も都江堰が、成都平野をはじめ巴蜀の心臓部であることを悟り、都江堰警備のために千単位の兵数を常備させていたと言われています。
中国史上の天才軍師にして不世出の英雄とされる諸葛孔明さえも認める重要拠点・都江堰が完成したことにより、紀元前3世紀の巴蜀の支配者たる秦王国の経済力は大いに増したのですが、更にその力を増加させる大工事が成功します。それが秦王・嬴政期の『鄭国渠』(紀元前236年)の完成であります。
 当時、西方の覇者と成った秦の圧迫を受けていた隣国の韓王朝は、秦王・嬴政の土木事業好きを知って、韓の水利技術者・鄭国という人物を秦に送り込み、秦王に大規模な水利工事計画を敢行させ、却って秦の国家を疲弊させようと韓は目論んだのです。
 秦の王都・『咸陽(後に秦帝国の帝都)/関中台地・渭河盆地』の南を流れる渭水の支流である涇水(けいすい、涇河とも)を掘削し、咸陽の北・瓠口(ここう)まで用水路を繋げ、更に渭水支流の洛河まで繋げる大規模な灌漑工事であります。
 当初、秦王・嬴政は、鄭国が韓から送り込まれたスパイで秦に大工事を起こさせ疲弊させる画策を知り、鄭国を処刑しようとしますが、彼は『渠(注:用水路)成るはまた秦の利なり』(史記「河渠書」)と秦王を説得。そして、鄭国指揮の下、完成した大規模用水路が『鄭国渠』(全長約150kg)であります。
 前漢期の偉大な歴史家・司馬遷が記した上掲の『史記「河渠書」』には、鄭国渠によって、それまで塩が吹き出て不毛地帯であった4万頃(約18万ヘクタール、東京ドーム約3.8個分)の台地を潤し、1畝(約1.8アール)当たり1鐘(約50リットル)の収穫物を得るに至り、関中は凶作知らずの沃野に変身。これにより秦は更に富強となって、天下統一を果たすことになったと記されています。
 また司馬遷は『史記「貨殖列伝」』でも、秦の本拠地であった関中台地の富強ぶりを『面積は天下の三分の一、人口3割なれども、富は天下の6割を占める(天下三分之一、而人衆不過什三、然量其富、什居其六)』と書いているように、秦王国、後の秦帝国が広大な中国大陸を切り盛りするほどの強靭な経済力を、巴蜀の都江堰・秦(関中)の鄭国渠という巨大水利施設を築いたことによって保持するに至ったのです。
 先述のように、都江堰を得た巴蜀の地は、天から与えられた豊穣の地『天府の国』と謳われるようになりますが、秦の本拠地であった咸陽が所在した関中台地も鄭国渠が完成したことにより、巴蜀と同じく『天府の国』と称されるほど天下第一の富裕の地となったのです。
 黄河中流の中原王朝・国家の人々(大陸中央部勢力)から大陸西部辺境・西戎と共存する野蛮人と蔑まれ続けてきた秦、その版図であった巴蜀は、辺境辺鄙という地理的不利を逆手に取るような形で、兵力と国力(『力戦力耕』)を蓄えることによって、天下統一を果たしたのです。まさか中原国家の人々が、秦が治める大陸西部の隅っこの2つ(秦と蜀)が、天下一級の富強の地となっているとは思ってもみなかったことでしょう。
紀元前221年、秦王・嬴政(当時39歳)は、最後に残った敵対勢力の斉国(現:山東省一帯を本拠地とした王国)を滅ぼしたことにより、中国大陸の統一を果たし、史上初の絶対的権力者・皇帝(上古の「三皇」「五帝」にあやかって皇帝という言葉が誕生)
 大陸全土を統一した秦の始皇帝は、戦国期のように各地に王国が割拠する封建制を廃止し、皇帝自らが大陸全土を直接する「郡県制」を確立。大陸を36郡に分け、各郡に行政長官や司令官を派遣し統治を行う「官僚制度」、官民を刑罰によって拘束統治する「法治主義」を貫徹させました。
過酷な重税の上、厳格な刑罰主義による統治、度重なる労役と兵役(帝都・咸陽の開発、万里の長城築城や北方辺境守備)、始皇帝の豪奢な大陸行幸などにより、中国大陸全土の民百姓は秦帝国の統治に怨嗟を抱くようになります。
 嬴政こと始皇帝は、天下を統一する前段階の覇者としては非凡な能力とカリスマ性を発揮した傑物だったかもしれませんが、国家全体を統べる天下人として必要な大雅量や思考の柔軟性は、明らかに欠落した暴君的存在でした。
かつて始皇帝が秦王期に尊敬した軍事家・尉繚(武経七書の1つである兵法書「尉繚子」の作者とされる)は、始皇帝の性格を『恩に感じることなく、心は残忍な虎狼のようだだから、生涯付き合うべき人物ではない』(「史記 秦始皇本紀」)と酷評しています。
 事実、始皇帝は晩年、中国史上最悪の宦官とされる趙高を寵愛し、政務を顧みることが少なくなり、咸陽近郊の儒学者の弾圧(生埋め処刑)と儒学書の焼却、即ち有名な「焚書坑儒」を断行、それを反対した嫡男(第1皇子)である有能な扶蘇を遠ざけ、自らは道教・不老不死の道に埋没していく迷走ぶりを発揮しています。
 絶大権力を掌握した天下人にも関わらず、混迷してゆく姿に虚しさを始皇帝に感じられますが、紀元前210年9月、始皇帝は行幸中の沙丘平台(現:河北省邢台市)にて崩御。享年49歳。
 始皇帝死後の秦帝国は、救いようない大悪人・趙高による独裁政治と虐政、2世皇帝(始皇帝の末子・胡亥。始皇帝に追放された第1皇子・扶蘇は趙高の謀略によって殺害)の無能ぶり、先述の帝国統治機構の拙さの民衆蜂起によって、崩壊の一途を辿り、紀元前206年、遂に滅亡します。秦帝国が樹立され15年後のことであり、始皇帝崩御の僅か4年後の出来事でした。
 秦を滅ぼしたのは、かつての秦王(嬴政)に滅ぼされた楚王国の遺臣たちを中心とした勢力でしたが、その実働部隊を率いて、秦の帝都・咸陽と関中台地を陥落させた大将が『項羽』『劉邦』でした。三国志と人気を二分する『楚漢戦争、楚=項羽・漢=劉邦』の主人公2人が、秦滅亡後の中国史の表舞台に登場したのであります。
 項羽と劉邦という秦帝国滅亡直後に登場した2大英傑を中心にして中国史が大転換した楚漢戦争期(紀元前206年~同202年)も非常に魅力的な時期であり、前掲の歴史家・司馬遷の大著『史記』でも項羽と劉邦は勿論、彼らの関連人物たちをはじめとする多種多様な人物たちも乱世を生き抜く姿には惹かれることを禁じ得ないです。
 因みに、この楚漢戦争期に現代日本でも馴染みの深い故事成語や四字熟語が誕生したことも楚漢期の魅力を更に引き立ているように思えます。最も有名な成語として「背水の陣」があり、他にも「四面楚歌」「国士無双」「捲土重来」「取って代わる」「故郷に錦を飾る」というように、現代日本人でも必ず一回は見聞きしたことがある言葉ばかりであります。

『王候将相、いずくんぞ種あらん』(身分出自に関係なく、実力で地位を勝ち取る「史記・陳渉世家」)

 上記を合言葉するかのように、始皇帝死後、多種多様の豪勇英傑たちが各地で蜂起。秦帝国から任命されていた郡守や県令の多くが反乱民衆によって放逐あるいは殺害されるという世情不安が横行します。それまで故・始皇帝の強烈なるカリスマ性によって維持されてきた秦帝国の法治主義と官僚制度は脆くも崩れ去ったのであります。
 各地の英傑たちが相剋・駆け引きする中で、亡国と化した秦帝国の「莫大な遺産=経済力」を受け継ぎ、最も上手く活用したのが漢の劉邦であり、この利点を活かし切ったからこそ、最終的に不俱戴天の仇である楚の項羽を打倒し、中国史上最長期の王朝・漢帝国を樹立できたのは間違いありません。
  漢民族・漢字・漢文というように、現在でも中国大陸、後々までの中国国家を象徴する「漢」の由来の「漢帝国」を樹立した劉邦(紀元前247~同195年)は、大陸のほぼ最東部に位置する泗水郡沛県豊邑中陽里(現:江蘇省徐州市豊県)の農家の出身者であり、若年期より無頼漢の生活を送りますが、長者の風格(良き兄貴分的魅力)があり、地元・沛県の若者たちの人望厚い棟梁格に成長してゆきます。
 その人気ぶりを買われ劉邦は、沛県泗水の亭長(警察分署長兼公立宿館館長)という秦政権における地方の下級役人に就きますが、始皇帝崩御を機に、秦帝国の統治に不満を持っていた民衆が大陸各地で蜂起。この混乱期に乗じる形で、劉邦も同郷の古き仲間たちの協力を得て沛県を乗っ取り、小規模ながらも1つの地方軍団の大将として、対秦戦争に参戦することになります。
 劉邦が小さい独立を果たした同じ頃、中国大陸南方の大河・長江(揚子江)の南岸にて、かつて秦帝国に滅ぼされた楚国の遺臣(元将軍)の子孫である項梁という文武両道の在野武将も秦帝国に対して蜂起し、勢力を拡大してゆきます。この項梁の甥に当たるのが、後に劉邦と天下分け目の決戦をおこなう項羽であります。
 劉邦は、項梁・項羽が主軸となり再興(事実上は創設。名目上の楚王として元・羊飼いであった楚の末裔の「懐王」を擁立)した楚軍に参戦、楚軍所属の新参将軍として各地を転戦するようになりますが、その最中に、楚軍と楚王国の事実上の総大将であった項梁が秦軍との戦い(定陶の戦い)で戦死した後、その甥であり項梁の先鋒将軍であった項羽が亡き叔父の地位を引き継ぎ、全軍の指揮権を掌握します。
 楚王国(首都:彭城=徐州。中国大陸最東部)の傀儡王者・懐王(後の義帝)は、項羽と劉邦に中国大陸西方へ進軍し、秦帝国の追討および帝都・咸陽(関中台地)の占領を命じますが、その時、懐王が「真っ先に関中台地を攻略した者に関中を与える」という口約束をします。先述のように、当時の関中台地は、名実ともに大陸の首都であり、天下の富の6割が集積されている最大の富裕な地であったので、劉邦たちは勇躍、東方へ進軍してゆきました。
 楚の主力軍は総大将である項羽が率い、黄河沿いを東進する北方コース(関中台地の正面玄関に当たる函谷関を直進する大手門コース)を採り、秦軍の主力軍(20万の大軍といわれる。しかも秦軍の総大将は、項梁を討ち取った名将である章邯)を真正面から激突(鉅鹿の戦い)。これを寡兵ながらも撃破する神懸かり的な勇猛ぶりを発揮し、天下にその勇名を轟かせます。
 項羽は、身長約188cmの大巨漢にして、約200kgもあった鼎(金属製の大鍋)を片手で持ち上げた逸話が残るほどの怪力の持ち主であり、上記のように軍事面では天才的な強さを発揮するカリスマ将軍でした。正しく項羽は『力は山も抜き、気は山も蓋う(「史記 項羽本紀」。垓下の歌)』が如き絶大な力と武略を持っていたのであります。
 更に、項羽は自分の配下将兵には厚い情誼を以って接するほど情理に厚い人物でもあり、楚軍内では正しく軍神と尊崇されていましたが、反面、常人以上に猛々しい性格の持ち主の分、異常・病的なほど自分の体面や利益を重んじる吝嗇的な部分もある上、敵対した者や城塞を容赦なく破滅・虐殺するほどの狂気的な直情も持ち合わせていました。その最たる例が、降伏させた秦軍20万の将兵を新安(河南省)で生埋め処刑したことでしょう。この後も、項羽は敵対した兵や投降者を大虐殺=生埋めをやってのけるほどの苛烈かつ残忍さを発揮しますが、これが最強武将ながらも「最凶・最低」の総帥というレッテルを貼られ、人心が離反してゆく最大原因となってゆくことになります。
「英雄と狂人は紙一重(There is no whole difference between hero and madness)」というセリフがとある洋画にあったと思いますが、項羽という紀元前200年代の中国大陸に誕生した傑物は、正しく英雄的と狂気的の両気質を多量に持っていた好例と思えます。

 一方、項羽と同じく秦帝国討滅を命じられた楚の別働隊的存在であった南方コース(関中台地の南玄関(裏口)に当たる武関から進攻するコース)の大将であった劉邦は、項羽とは対極を成す将軍でした。
 先述のように劉邦は元々農民出身者であり、しかも家業を怠けて街を無頼漢らと徘徊していた遊侠の徒であったので、項羽のように神懸かった軍事の天才でもなく、武芸や膂力に優れていた武将でもありません。しかも、元が卑賤身分にして無頼野郎あがりだけに、礼教(儒学)の道を大いに嫌い、配下将兵に対しても無礼に接することが多々あり、その中でも有名なのが、劉邦の客分格であった儒学者の冠をひったくり、その中で平然と放尿したという最悪な無礼を働いたことでしょう。他の逸話では、儒学者の股間を鷲掴みにして睾丸(男の急所)を弄んだ、というものあります。
 しかし、その無頼漢あがりの大将となった劉邦には、どこか周囲の人々を惹きつける愛嬌がある上、自分自身の長短をよく自認し、有能な人物の見識や道理に適った意見を尊重し、自分に非や過ちがあった場合は、直ぐ改めるという素直な性格の持ち主でした。
 
 『君子は豹変す』(有能な者は、状況に応じて、直ぐに過ちを改める。「易経」)という有名な慣用句がありますが、正しく劉邦は自分の非才や無能ぶりを自覚し、その分、逸材や有能な人物を尊重し、彼らに自分を援けてもらうリーダー像を貫徹します。(尤も、先述のように、他人に対して無礼を働く劉邦は、温和篤実には程遠い君子サマではありますが)
 劉邦は良き親分肌の姿勢を持ち続け、項羽のように敵対勢力を無暗に殺さず、寧ろ降伏させて自身の傘下に組み込み戦力を増大させ、功績を立てた人物に対しては有能無能・自身の好悪感情に関わらず必ず賞賛し、褒美や地位を惜しみなく授与するという、常に雅量の大きさを天下に示しました。
 この劉邦が持つ独特な魅力と大将の風格を慕って、彼の傘下には多くの逸材が集結し、劉邦を良く補佐して偉業を達成してゆくことになります。
 劉邦と同郷(沛県)で子分格の無頼漢にして劉邦軍(漢軍)の将軍となった「樊噲(はんかい)」「盧綰(ろわん)」「周勃(しゅうぼつ)」「灌嬰(かんえい)」。沛県の下級役人であり、劉邦決起に協力した後は、漢軍の重鎮となる「曹参(そうしん)」や「夏侯嬰(かこうえい)」が存在します。
 上記の劉邦配下の人物たちは皆、戦線で実働部隊を指揮する将軍たち(後に皇帝になった劉邦は「猟犬の働き」と言っています)でありますが、他にも劉邦の外交官的役割を担った文官の人材では、儒学者の「酈食其(れきいき)」や「随何(ずいか)などもおり、権謀術数を駆使する天才謀略家では、自らを「謀多し」と評した「陳平」も後に加入します。 
 多種多様の軍人・文官が揃う人材の中で、劉邦軍・漢軍の勝利、ひいては漢帝国の樹立に大功績を挙げた逸材・天才たちが、以下の通りであります。

『帷幄(いあく。軍隊の本営。)の中に在り、戦の勝ちを千里の外に決する』と謳われるほどの天才軍師・『張良(子房)』

『国士無双(天下に並ぶ無き逸材)』と謳われるほどの大将軍・『韓信』

⓷劉邦と同郷、沛県の下級役人であり、内政・兵站(物資補給)能力に非凡な能力を発揮した名宰相・『蕭何』

 余談ですが、2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、主人公・北条義時の盟友にして政敵存在として扱われた曲者の鎌倉御家人・三浦義村は、『その智謀、八難六奇なり』(藤原定家「明月記」)というように、権謀術数に長けた武士と当時評されましたが、八難六奇とは、上掲の劉邦の軍師参謀であった「張良」(八難)と「陳平」(六奇)を意味しています。日本中世期でも、紀元前200年代に活躍した張良と陳平が天才策略家として有名であったことがわかります。

 智の『張良』・軍の『韓信』・政の『蕭何』。漢帝国の創設に功績が絶大であった3人は『漢の三傑』と評されますが、特に劉邦勢力の内政・兵站を一手に担った政治家・蕭何が一番の功労者であり、実際、後に宿敵・項羽を打倒し、前漢帝国が創設された際、皇帝・劉邦は、常に最前線で戦った将軍たちよりも、常に後方にあって劉邦軍を支援し続けた蕭何を第一級の功労者として賞しています。(皇帝・劉邦は、上掲の将軍たちの軍功を「猟犬の働き」と低評価している反面、兵站に粉骨砕身した蕭何の働きを「人の働き」と賞賛しています)

 以上のように、平民・無頼漢あがりの大将・劉邦は、自らの無知や無能さを見極め、謙虚かつ敬意ある態度を以って、昔からの武勇に優れた仲間たち、内政・智謀に非凡なるい逸材を集め、彼らの協力を経て、徐々に組織力を高めていったリーダーであり、自信溢れる闘争心と神懸かり的な武略を発揮し配下将兵を従え、自らの武勇で以って強敵を打倒した楚の項羽とは違う偉大な大将です。
 前漢初代皇帝になった劉邦は、『朕は、蕭何・張良・韓信といった傑物を良く用いたからこそ、項羽を倒して天下を得ることができた。』と自らのリーダーシップを評しており、劉邦を軍事面で支えた韓信も主君である劉邦の事を、『将に将にたる力を持つ(将軍を善く用いる将軍)』と評しており、これらの大将・劉邦評が正鵠を射たものであったことは、歴史が証明しています。

 先述のように、名目上の項羽・劉邦の君主たる懐王は、「最初に秦の関中台地を攻略した者に、関中の地を与える」と口約束をしていましたが、関中台地の正面玄関に当たる北方ルートを担当した精鋭・項羽軍、同地の裏玄関に当たる南方ルートを進軍した別働隊の劉邦。どちらが、先に関中台地と秦帝国の帝都・咸陽の攻略を成功させたのかというと、南方ルートを進軍した劉邦でした。
 北方ルートの項羽軍は、楚の主力精鋭軍であり、秦帝国の本拠地の真正面から突き進んだので、秦の主力である大軍と戦い、正しく「力」と「力」、「剛」と「剛」のぶつかり合いを強いられたので、却って進軍が遅くなってしまったのです。
 対して南方ルート担当にして楚の弱小軍団長である劉邦は、秦の精鋭軍と戦うことが避けられた上、劉邦の戦い方は、項羽のように力のみで押し切る実戦は極力避け、敵軍の将軍や地方長官(郡守や県令)を外交調略、つまり話し合いで屈服させる「柔軟」な戦略を採ったので秦軍たちも安心し、相次いで劉邦軍に味方してゆくので、大した困難無く関中台地の南方の鉄壁・武関を突破し、遂に帝都・咸陽を降伏させたのです。
 紀元前206年の出来事であり、ここに秦帝国は滅亡したのですが、これを成功させた劉邦の柔軟な作戦を立案・指揮したのが、智の張良であると言われています。
 最も富裕なる地である咸陽と関中台地を軍事的に制圧した劉邦は自軍の規律を徹底させ、関中の民衆へ危害(殺害や奪略)を加えることを厳禁としたので、民衆は劉邦とその軍を忽ち信用するようになります。この時、劉邦が厳格かつ複雑極まりない秦帝国の法律を全て撤廃し、「法三章(人を殺したら死罪、人を傷つける、財を奪った者は処罰する)」で占領統治を行うことを明言したことは有名であります。

 楚の懐王が口約束したように、関中台地を制圧した劉邦が同地の支配者になると思われましたが、これは事実上の楚王国の支配者である項羽によって破談されてしまいます。しかも項羽は、この直後に懐王を義帝として祀り上げた挙句、帝を僻地へ追放した後、弑逆(暗殺)しています。
 宿敵・秦帝国を滅ぼした項羽にとって、義帝という傀儡君主は、既に無用の長物と思ったかもしれませんが、(前掲の項羽の残忍な性格に加え)、この安直な考えも、劉邦をはじめとする各地の諸侯離反の一因となり、覇王・項羽を苦しめることになります。
 項羽、その軍師である范増(はんぞう)は、劉邦に「関中(かんちゅう)」ではなく、隴西と巴蜀の大山塊の間に位置する辺境の地『漢中(かんちゅう。別名:南鄭(なんてい)。現:陝西省漢中市)』と、旧秦帝国の属国(流刑地)であった巴蜀の地を与えて『漢王』と成し、政治・文化の中心地であった中原(黄河中流域)から遠ざけました。因みに、この頃に劉邦軍の一兵卒に過ぎなかった韓信が一躍、軍の総司令官である大将軍に抜擢されています。
劉邦に与えられるはずであった天府の国・関中台地は3分割され、項羽に降伏した旧秦帝国の元将軍3人(「雍王・章邯(しょうかん)」「翟王・董翳(とうえい)」「塞王・司馬欣(しばきん)。即ち三秦」)にそれぞれ与えられ、大山塊の牢獄(漢と巴蜀)に押し込められた漢王・劉邦の監視役を覇王・項羽から命じられました。
 余談ですが、この劉邦とその一党が大陸中央部から辺境の西部(つまり左)に遷された滑稽劇から、「左遷」という成語が誕生した、と言われていましたが、残念ながら現在では、この説は否定されています。
 
 祖国の仇敵であった秦帝国を滅ぼし諸侯を従え、事実上の中国大陸の覇者、天下人まで成り上がった項羽でしたが、(傀儡ながらも)君主・義帝を弑逆するなど、天下を統べるには致命的な失策を何度も犯しています。
 第1に、天下の富の6割も集積されていた天府の国にたる関中台地、旧秦の帝都・咸陽の統治権を自ら放棄し前掲の三秦王に与え、楚の本拠地・彭城へ撤退したこと。
 因みに、この時、項羽配下のある人物が「秦が天下を獲れたのは、豊穣なる関中の地を本拠としていたからなので、是非、項王(項羽)様も関中を本拠とするように」と項羽に勧めたのですが、項羽はこれを拒絶。
その理由として「大功を挙げたのに、故郷(彭城)へ帰らないのは、『錦を着て』夜道を歩くようなものだ」(「史記」)という事を項羽は挙げていますが、この彼の錦を着てという言葉が、現在でもお馴染みの慣用句『故郷に錦を飾る』の出典となっています。

 第2は、本拠地・彭城へ撤退の際、咸陽を焼き討ちし、殺戮と苛烈な略奪を行って、民衆(天下の富裕層の秦人たち)の強い恨みを買ったこと。
 項羽に先駆けて、咸陽を占領した劉邦は、自軍の将兵へ民衆に危害を加えることを厳禁とし、占領統治に細心の注意を払って、関中台地の民心を掴むことに成功した反面、項羽は真逆行為をやってしまい、当時の天下経済の中心地であった咸陽と関中台地の統治に大失敗しています。一事が万事。この一事(と言っても相当なる大事件ですが)によって、項羽は民衆の支持喪失に拍車を掛ける一因となってしまい、山奥に追いやったはずの漢王・劉邦の関中占領の最速復帰、ひいては4年という長きに渡る劉邦との頂上決戦・楚漢戦争をやる羽目となってしまいます。

 第3は、第1の付け加え的になってしまうのですが、事前に下調べなどせず、劉邦というライバル候補に、漢と巴蜀(現:陝西省南部と四川省一帯)という広大な封土を与えたことでしょう。
 何度もふれているように、当時の中国中央部の人々は、巴蜀の地を3千メートル級の高山群に囲まれ世間と完全途絶した最たる僻地、虫やミミズ程度の生物のみが住まう食料難の不毛地帯と思い込んでいましたが、山塊に囲まれるという点は正解ですが、不毛地帯というのは全くの誤解でした。項羽やその軍師の范増もその例外ではなく、この事も楚の覇王・項羽の致命傷の1つとなっています。
 秦王国が巴蜀の地を占領した紀元前300年頃こそは、山々に囲まれ不毛地帯であり、罪人の流刑地に相応しい土地柄であったでしょうが、先述のように同250年代には、秦の蜀郡太守・李冰(りひょう)・李二郎父子が、大規模灌漑施設(ダム)・都江堰を構築したことにより、蜀郡は洪水が減った上、不毛であった地は潤いを得るようになり、同郡の中心地の広大な成都盆地は、(関中台地と同じく)「天府の国」と美称されるほどの一大穀倉地帯を変貌していたのであります。
 図らずも劉邦が漢王として漢中、その後背地である巴蜀の主となった紀元前200年前半も成都盆地は天府の国であったことに変わりはなく、この後、全身全霊で天下の覇王・項羽に立ち向かってゆく漢王・劉邦にとって後方の巴蜀の地は、大山塊という鉄壁に囲まれた兵員や豊富な食料物資の補給地となったのでした。
 即ち項羽は、劉邦を漢中・巴蜀の大山塊に幽閉して、劉邦勢力を衰弱死させることを企図していたかもしれませんが、却って劉邦に鉄壁な巨大補給地を与えてしまい、彼を大復活させる最大原因を作ってしまったのです。
 劉邦は劉邦で、項羽をはじめとする周囲から僻地・不毛地帯と思われたことを幸いに転じて、かつての秦が徹底整備してくれた巴蜀の地を最大補給地としてフル活用し、項羽との楚漢戦争に挑んでゆくのですが、その漢中や巴蜀の地の内政統治、劉邦が率いる軍勢への兵員・物資補給を一手に担ったのが、劉邦の最古参の同郷仲間であり元下級役人であった蕭何であります。
 項羽によって劉邦が漢王に配された時、蕭何は漢の文官最高位である「丞相(首相)」に叙任されていますが、劉邦が秦帝国の帝都・咸陽を制圧した際、蕭何が真っ先に抑えたのは帝国が蓄えた金品財宝ではなく、帝国が創作した官僚と法令制度・租税・地理風俗・各地の名簿などが明記されている膨大な公文書や関連書類でした。秦帝国は史上初となる法治主義に基づく官僚制度による大陸全土統治を国家政策としましたが、それを可能にするほどの体制と優れた文面や書類作成能力を持っていたのであります。
 後に咸陽は、項羽によって徹底的に破壊・収奪されたのは先述の通りですが、その前に蕭何が旧秦の統治書類を確保していたので戦禍を免れ、この書類群が漢軍に必要な人員や物資補給の立案と実行の原動力となってゆくのです。
 金品に目をくれず、国家の重要書類をいち早く確保していたという名宰相・蕭何は、やはり中国史上に偉大な名を遺す政治家であったことを証明する一事ですが、その蕭何を徹頭徹尾、信用して、漢軍の内政・兵站全般の総責任者として重用した漢王・劉邦も、ただの無頼漢あがりの王様ではありません。

 第1~3まで覇王・項羽の失策を挙げてみましたが、彼の最大失策は、自分の並外れた武勇と力に溺れ、実戦での勝ちのみに囚われ、長期戦争で一番重要となってくる後方支援体制の確立や情勢・戦況に柔軟に応じて政治的あるいは外交的な政略を採れなかったことでしょう。
 『戦争は政治行為の1つ』と評したのは、項羽の劉邦より遥か後年の19世紀プロセイン王国の軍人・カール・F・クラウゼヴィッツですが、項羽には戦争という1つの政治的行為のみに没頭し、『将帥=ジェネラル=総合統括者』に必要不可欠な政治・外交・経済=兵站能力という政略的(全体的)判断が全く欠如していたために、天下の覇者となりながらも敗者に大転落した最大原因でした。
 あるいは、宿敵・劉邦のように、項羽本人は得意な戦争屋に終始し、内政・兵站、外交という面倒な部門は項羽が有能な人材を抜擢し、それらに一任するという手段もあったのですが、自信過剰にして苛烈な性格を持ち合わせている項羽には人の意見を傾聴するという謙譲な態度はとれなかったでしょう。結局、項羽は天才的軍事家でありながら、それ以上の存在、王者になれる素質は元々なかった」と言えるでしょう。
 対して、劉邦は政の蕭何・智の張良・軍の韓信という三英傑らをフル活用することにより、先述のように一時的に、強大な項羽によって、山奥の漢中・巴蜀へ左遷させられますが、民衆の強い支持(項羽と楚に対する強い敵愾心)もあり、忽ち漢中から出撃し、関中台地を攻略奪還に成功。この後は、黄河中流域を舞台(特に河南省)として、西楚の覇王・項羽と雌雄を決する戦を重ねることになります。
 「山も抜き剛勇無双にして天下を牛耳る覇王・項羽」「無頼漢あがりの王者・劉邦」対戦成績を現代風に例えるなら、100戦中、楚の項羽:99勝1敗、漢の劉邦1勝99敗となるでしょう。
 劉邦は項羽と戦えば、全戦全敗であり、何度も戦死しかけますが、劉邦が天性持っていた強運、そして何よりも後方(西方)に存在する漢の本拠地である関中台地・巴蜀の地から支援される兵員と豊潤な食料物資があり、それを絶えず送ってくれる漢丞相・蕭何の働きによって、劉邦は何度も虎口を脱し、項羽との再戦できたのであります。
 また黄河中流域に旧秦帝国の遺産というべき官営食糧庫(敖倉)が多数存在し、劉邦はそれらを掌握し経済的に項羽を圧し、他では漢の天才将帥・韓信や反項羽勢力である彭越(ほうえつ)や英布(黥布とも)らを扇動し、楚軍の後背や横腹から包囲する外交的攻撃を絶えず行い、更に楚軍を内部崩壊させるべく謀略戦を仕掛け、項羽の唯一無二の軍師であった范増を項羽から離反させることを成功させています。これら外交・謀略戦に大活躍したのが、劉邦の天才軍師・張良であり、謀略戦の天才であった陳平であったのです。
 『将たる将の能力』(韓信の劉邦評)を以って政治・外交・諜報戦といったようにあらゆる手管、言い換えれば『弱者の知恵』を使って対峙してくる漢の劉邦に対して、100戦99勝の戦績を誇る精強無比であるはずの項羽と楚軍は、絶対的優勢から徐々に劣勢と追い込まれてしまい、残り1試合の最終戦で劉邦と漢軍に致命的な大敗北をしてしまい、項羽と楚は滅亡してしまいます。これが垓下の戦い(紀元前202年)であります。
 漢軍との戦いに劣勢に立たされ垓下の砦(安徽省宿州市霊璧県)に籠城していた項羽と楚軍は、包囲軍から楚の歌声を聞き、項羽の故郷である楚(長江南岸一帯。江南地方)は敵方の漢軍に寝返ったと思い込み、戦意を喪失し、楚軍の崩壊が加速したと言われ、これが有名な四字熟語『四面楚歌』の出典となっています。
 強者・項羽に対して、弱者・劉邦は項羽との正面衝突を忌避し、政治や外交などの側面攻撃で項羽を衝き、更に辺境とされていたはずの天府の国(関中台地と巴蜀)を本拠地とするという経済力を以って、劉邦は最後の最後で勝利を掴み、中国大陸の天下人となったのであります。
 この弱者の知恵、硬軟織り交ぜた柔軟な思考法、人材活用、そして、辺境の地を第一等地として切り拓いた劉邦を私淑したのが、16世紀の日本戦国期の最後天下人・徳川家康であります。

(皆さま、長らくお待たせいたしました。ようやく以下からは日本戦国期、徳川家康について触れてゆきたいと思います)

 戦国期最後の勝利者にて、約260年という江戸幕府長期政権を築いた徳川家康も歴史通であり、特に源頼朝と鎌倉幕府の草創を描いた歴史書「吾妻鏡」と中国古代史を綴っている司馬遷の歴史書「史記」を愛読していたことは周知の通りであります。この両書を愛読することによって、徳川家康(1543~1616)は武家政治家・あるいは多種多様の人材傑物を従える総帥としての態度や心構えを学んでいったのであります。
 そんな徳川家康も敬慕する劉邦と同様、当時の天下人である豊臣秀吉に辺境の地に左遷されてしまう憂き目に遭っています。
 漢高祖と尊称され人気がある劉邦が農民出身の天下人であるという点は、太閤さんと親しまれる豊臣秀吉と似ているのですが、左遷された土地から捲土重来、天下の覇権を掌握したという共通点を持つところでは、図らずも劉邦と徳川家康は酷似しています。(劉邦は強敵・項羽との戦で大敗北を喫し、単騎で逃げ回った経験があり、徳川家康も武田信玄という最強大名に追い回され、幾度なく苦境に立っている、という軍事的敗北の戦歴を劉邦と家康が持っている共通点もあります)

 1590年(天正18年2月)、徳川家康は天下人・豊臣秀吉に従い、未だ豊臣政権に服属していない関東の覇者・小田原北条氏討滅に参戦。いわゆる小田原討伐と呼ばれる豊臣秀吉による天下統一総仕上げの合戦であり、西日本や東海北陸の諸大名の軍勢を総動員した天下の豊臣軍は、苦戦することなく約5ヶ月の期間で、最後の強敵・小田原北条氏を屈服させることに成功します。
 小田原北条氏を攻略直後、豊臣秀吉は、豊臣軍先鋒として従軍した徳川家康の軍功に対する恩賞を名目として、北条氏の旧領および支配圏であった⓵「相模」⓶「伊豆」・⓷「武蔵」・⓸「下総」・⓹「上総」・⓺「下野の一部」・⓻「上野」・⓼「常陸の一部」、いわゆる『関東八ヶ国(関八州)』(石高:250万石)を与え、代わりにそれまで、家康の領国であった三河・遠江・駿河・甲斐・信濃南部の東海甲信五ヶ国(約150万石)を没収する沙汰を家康に下しました。この恩賞沙汰を豊臣秀吉が徳川家康に話した際、2人で連れ小便をしていたという逸話があり、これが「関東の連れ小便」と言われているのは有名であります。

 東海甲信5ヶ国150万石の太守から一躍、石高プラス約100万石の関東八ヶ国250万石の王者に大出世したような徳川家康ですが、家康本人や徳川家臣団にとっては良いこと尽くしばかりではありませんでした。
 周知の通り、東海地方、特に三河国は徳川松平氏はじめ家臣団の父祖墳墓の土地であり、国内の土豪や領民とも馴染みがあり、領国支配も容易である上、天下の中心地たる京都・大坂(畿内)に近いという地理的利点がありました。そこから強制的に切り離される徳川家臣団にとっては、憤懣このうえないものであったことでしょう。
 その反面、広大な領域、日本随一の平野部を有しているとはいえ関東八ヶ国は、徳川氏にとっては縁も所縁もない土地柄である上、それまで小田原北条氏が約100年近く支配した地方であり、初代・伊勢宗瑞(北条早雲)以来、代々の当主は減税政策(四公六民)や目安箱設置など善政を基本方針としていたために、関東の民衆は小田原北条氏の支配体制を享受していました。その風潮の中へ余所者にして、関東の民たちが慕った小田原北条氏滅亡の先駆けを務めた徳川家康とその一族郎党が入部してゆくのであります。
 上記の世情により、関東へ入国する徳川家康と彼らを迎え入れる関東の民衆、両方とも気まずい感情があったことでしょう。
地理的にとっても、関東地方は日本の中心地であった畿内(京都・大坂)から遠く、西日本に通じる通路は山塊に遮断されている悪条件を有していました。即ち南関東の相模伊豆方面(東海道方面)は、標高1000メートルを越す足柄山をはじめとする「箱根峠」があり、北関東の西への出入口となる上野・信濃方面(東山道、後の中仙道方面)にも標高956メートルの「碓氷峠」が障害として控えています。
 自動車や舗装幹線道路を有している現代人の我々が標高1000や900メートルと聞くと、それほどの難所とは思えないかもしれませんが、戦国期当時は大山塊のイメージであり、越すには難所中の難所であったのです。
因みに、現在の関東地方全域は、古来は東国(あずまのくに。吾妻とも。)と呼称され、8世紀の奈良朝頃になると『坂東(ばんどう)』と呼ばれるようになりますが、この理由は、南の「足柄峠」・北の「碓氷峠」、2つの『坂』を境界として『東』にあるから坂東と呼ばれるようになったからです。
 2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」内のセリフで、「坂東武者」(東国武士団)という言葉を何回も見聞きした方がいらっしゃると思いますが、足柄・碓氷の両峠の東部に割拠した武士団であったから、坂東武者と呼ばれていたのであります。

 1590年、先祖代々慣れ親しんだ三河、東海甲信の地を離れ、鎌倉期の坂東武士団の故郷、馴染みが薄い新天地の関東八ヶ国へ入部した徳川家康とその家臣団は、新たな本拠地を武蔵国の『江戸』と定めました。
 江戸。後年の18世紀には、当時世界有数都市あったロンドン・パリ以上の巨大都市(大江戸八百八町)までに成長し、現在の東京都(特に皇居を中心とする都心部)の原型となる地は、徳川家康が入部した1590年当初、田畑開拓や都市建設が不可能な『見渡す限りの葦や萱が生い茂る原野』(大道寺友山「岩淵夜話集」)が広がる貧相な土地柄でした。
 更に、見渡す限りの湿地帯であったため水質が悪く、地下水も海水(現:東京湾の海水)が混ざっているので、人が生きてゆくために必要な上水道(生活用水)の確保でさえ、ままならぬ惨状ぶりでした。
 関東覇者・徳川家康が自らの居城と定めた江戸城(即ち、現在の皇居)も、豊臣政権下最大大名の牙城とは思えぬ貧相ぶりであったと言われています。
 湿地帯に覆われる江戸近郊で唯一と言うべき乾燥した盤石な土台に建つ江戸城は、室町中後期の名将・太田道灌によって築城されただけあって、室町当時としては本丸・二の丸・三の丸というように近世城郭の礎となる革新的な縄張りでしたが、家康入部当初の江戸城の建物は板葺き屋根ばかりであり、床板は舟板が使われ、城郭の第一防御施設というべき壁や塁に至っては、石垣造りではなく土塁であり、その上には竹や木々が茂る雑木林状態でした。
 江戸城南側の真下には海水が迫り、それを挟んだ反対側には江戸前島と呼ばれた小規模半島が突き出した入江となっており、多くの徳川家臣団が居住するための武家屋敷の用地にも事欠く有様でした。因みに、江戸城と江戸前島に挟まれた入江(海面)は、「日比谷入江」と呼ばれており、現在の帝国ホテルや日比谷公園の所在地は、徳川家康の江戸入府時は海の底でした。
 後の1620年代になると、江戸都市大拡張のため日比谷入江は埋め立てられ、その地は大名屋敷などが建てられるのですが、現在の皇居外苑の御壕や日比谷濠、かつての日比谷入江の名残であります。

 貧相な江戸城と殆ど手付かずの葦などが生い茂る湿地が広がる江戸の地に入部させられた徳川家康とその家臣団は、「土地改良」「城下町整備」「飲料水の確保(上水道整備)」「掘割(水路開削)」などのインフラ整備が喫緊の課題となり、徳川家中総動員でそれらを解決してゆくために動いてゆきます。
 かつての辺境地の漢王にさせられた劉邦は、旧秦帝国の遺産・関中台地と巴蜀という天府の国と蕭何という行政の達人を得ることによって、王国内の統治や兵力・物資などの補給能力を充実させましたが、徳川家康は自身の家臣を使って、先ず上水道整備や土地改良といった開発の基本作業から従事することになります。
 劉邦が蕭何という優れた行政長官を以って、漢王国(漢帝国)の国政と国力を整え、中国大陸の覇権を掌握しましたが、日本戦国期における関東王・徳川家康は「伊奈忠次」を筆頭に「大久保長安」・「彦坂元正」・「長谷川長綱」といった文治や技術能力にすぐれた中階級武将4名を『代官頭』(後の関東郡代)に任命し、広大な関東徳川領国の開拓や統治を管轄させました。後々まで江戸幕府は、行政能力に優れた技術官僚を多く輩出することになりますが、上掲の伊奈忠次をはじめとする武将たちは、その江戸幕府所属のテクノクラート(技術官僚)の元祖たちというべき存在であります。
 伊奈忠次は利根川東遷工事や備前堀の開削など代表されるように治水・灌漑整備の開拓部門を主に受け持ち、大久保長安は金銀の採掘能力に優れ、鉱山開発や金貨鋳造など財政部の責任者であり、彦坂元正は検地や東海道と宿場町の整備を担当、長谷川長綱は水軍衆の向井氏との縁戚関係を活用し徳川家の海運整備を担当、浦賀江戸湾の発展に寄与しています。
 大久保・彦坂・長谷川らは三河国出身者ではなく、徳川家康からしてみれば中途採用の外様家臣たちであり、伊奈忠次こそは家康と同じ三河者であり徳川譜代家臣に当たるのですが、有名な三河一向一揆の際、反家康派に加担(中立説もあり)したために、伊奈は一度、家康から追放処分を受けている経歴を持っています。
 言わば関東徳川王国の内治の総責任者たる代官頭を担った人物たちは、徳川氏にとってはスネに傷がある者たちばかりだったのですが、巨大化かつ未開拓地が広がる関東領国を経営してゆくためには、行政や開発技術に優れた文官武将を積極的に活用してゆくことが最重要である、ということを関東王・徳川家康は悟っていたのであります。
 それまで徳川家康には忠義に厚く、勇猛果敢なる本多忠勝や榊原康政といった天下随一の武将たちが中心となって戦国大名・徳川氏をけん引してきましたが、天下は豊臣秀吉によって統一され合戦=領国拡大の機会が減少した以上、今後は領国経営がより重要となってくるので、小身ながらも伊奈忠次のような行政能力に優れた文官たちの活用が徳川氏繁栄のカギとなるという時代の変化に応じて、家康は柔軟に対処していったのであります。
 この柔軟な経営姿勢が徳川家康の凄さの1つと言ってもいいのですが、これも家康が尊敬していた漢帝国の劉邦、そして鎌倉幕府創設者・源頼朝の2名から学んだ大将としての心得、人材活用法だったと思われます。
 劉邦が、丞相こと行政長官の蕭何、智謀担当の張良、軍統率者の韓信の漢の三傑をはじめ武将や文官を上手く活用したことにより、国力や兵力を整え項羽を撃破した好例があり、鎌倉幕府の源頼朝も、強敵の木曾義仲や平氏軍を撃破するために勇猛果敢な東国武士団を活用する一方で、武家政権の基盤を整えるため法令や文事に明るい京都朝廷の下級役人出身の大江広元や三善康信といった文官御家人らを登用して幕府の礎を築いたことは有名です。
 前掲のように、漢帝国初代皇帝・劉邦のこと事細かに記されている司馬遷の『史記』、源頼朝はじめ源氏三代将軍、北条執権体制の公式記録書というべき『吾妻鏡』を愛読していた徳川家康ですから、劉邦や頼朝から良き大将としての有り方を学び、滅んだ項羽や平氏一門を反面教師として心に刻んだかもしれません。
 更に想像を許されるならば、徳川家康は、古代の劉邦が不本意ながらも天下の覇者であった項羽(その参謀・范増)に辺境の最果てと思われていた大陸西方の大山塊の漢中と巴蜀に追いやられながらも同地を根拠地として中原へ再度進出し、最終的に項羽を打倒したという故事と、同じように、天下人・豊臣秀吉によって東海地方を放逐され、箱根と碓氷の山々を越えた関東に遷される羽目になった家康自身を思い併せて、関東で徳川氏を繁栄させていくことを決意したかもしれません。
 結果的に言えば、徳川家康も辺境と当時思われていた関東平野を本拠地とし、最終的に天下の豊臣氏を滅ぼし、徳川の天下を創設したので、家康が私淑していた劉邦と似ています。
 劉邦の宿敵であった項羽は、辺境と思っていたが実は旧秦帝国によって整備されていた天府の国となっていた漢中と巴蜀を劉邦に与えてしまったために、最終的に項羽は足元をすくわれる羽目に陥り、徳川家康を第二の勢力として警戒していた豊臣秀吉は、箱根山と碓氷峠の東側に広がる未開の地・関東に家康を追いやっておけば、家康と徳川は同地の開拓のために疲弊するだろうと考えていたかもしれませんが、家康とその家臣団は、関東の開拓を上手くやってのけ、逆に天下諸侯を恐れさせるほどの国力と兵力を養うことに成功し、却って秀吉は徳川の天下統一の礎を築くために大きく寄与したのであります。

『秀吉は、徳川家康を天下の強豪ならしめるために、却って格好な運動場(註:関東地方)を提供してしまったようなものである』(歴史教養番組「英雄たちの選択」より)

と印象的なことを言われたのが、歴史学者の磯田道史先生です。
 弱者・劉邦に敗れ去った覇者・項羽、徳川家康に天下取りの最大チャンスを与えてしまった豊臣秀吉。項羽・秀吉、共に歴史上に存在する天才的な逸材でしたが、弱者を侮った驕りと、辺境地に対する認識の甘さという少しの過ちから、自身の天下を喪ってしまったのであります。

 今回は古代中国史を代表する秦の始皇帝と漢帝国の初代皇帝・劉邦、そして日本戦国期の徳川家康という三人物を長々と追わせて頂きましたが、彼らが天下の覇権を確立できた要因はいくつもありますが、その中でも筆者が魅力的に感じられたのが、皆、優れた人材を確保していたことと、当時、周囲からは辺境地/未開の地と卑下されていた地域に拠り、飛躍を遂げた、という点でした。
 それを以前から大いに興味があり、いずれは文章化にしたいと思っていたために、このような長文となっていまった次第でございます。どうぞご了承下さいませ。

(寄稿)鶏肋太郎

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