織田信長が優れた経済感覚を持てた理由

戦国一、というより日本史上の英雄というべき人物は、『織田信長(1534年~1582年)』であることは皆様よくご存知の通りでございます。
我々現代人が、その信長に惹かれる理由として挙げられるのは、それまでの一般的な既成概念には囚われず、合理的というべき政策・戦略を採用し、天下に邁進していった正に『天才革命児』というべき魅力を信長が有しているという一点に尽きると思います。

その信長が採った有名な政策軍略を敢えて箇条書きで以下に列挙させて頂くと

①古来より門閥・血縁意識が強かった武士政権の当時にあって、氏素性が定かではない他国者や下賤出身であった滝川一益・明智光秀、そして後に天下人となる豊臣秀吉(木下藤吉郎)といった有能な人材を抜擢し、織田軍の柱石に育成していった、「人材登用術」。

②半農半士(即ち農兵/兵農未分離)が軍団の主流であった当時に、農業に束縛されることなく、年中軍事行動が可能である常備軍(足軽兵)を本格的に編成した「兵農分離」を実施したばかりでなく、それまでの個人戦(一騎打ち)が廃れ、集団戦法が主流になりつつある戦国期にあって、信長はその風潮を見事に捉え、集団戦に向く長槍(有名な三間槍)や最新兵器・鉄砲を大量に自軍に導入した、「軍事改革」。

③当時、商工業の組合(座)および物流(関所)の総元締めであり、足下の商工業者従事者から土地税や商業税などを多く取り立てていた寺社勢力と一線を劃し、信長は商業税のみ支払えば、誰でも商工業に参入できる仕組みを大々的に打ち立て、世間の商工業を活性化させた有名な「楽市楽座」、また人・物資の流通の妨げとなっていた「関所撤廃」を敢行し、物流経済にも大きな影響を与えたこと。

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以上、主に3点に絞られると思うのですが、それらに共通するのは「それまでの慣例を破り、合理的な事を行った」という事ですが、その中で一番重要なのは、正に③の「楽市楽座」や「関所撤廃」といった信長の合理的な経済政策であり、ズバリ『金』と『モノ』の力であります。
これが信長が多くの戦国武将を退け、天下の覇者までに昇り詰め、現代まで(特に戦後から)、織田信長が英雄として多くの人々に崇められる最大の根源であります。
一見、光秀や秀吉を登用したことや、大軍である今川義元を小勢で撃破した桶狭間や、鉄砲で当時最強軍団であった甲斐武田軍を撃破したといった信長の華やかな勝ち戦に注目されがちですが、その人材登用や軍事革新には、やはり元手、お金、強力な『経済力』、それを活かす『合理的な思考力』が必要となってきます。
英雄・信長の凄さは、その『2つ』を重視するばかりでなく、それを身に付けていたことにあります。
何故、信長は、それらを兼ね備えることが出来たのか?それは、信長が生まれ育った土地柄と家柄にあったのであります。

『商品(貨幣)経済が人の合理的思考を育てる』と仰ったのは、筆者も私淑する歴史作家『司馬遼太郎先生』ですが、信長という天才合理主義者が誕生した尾張国(愛知県西部)という「古くから農業・商業の先進地帯であった地理的環境」を無視できません。
日本国の中心に位置する東海道に属する尾張は、有名な木曽三川(長良川・揖斐川・木曾川)とい一級河川が伊勢湾に向かって流れ、それら河川によって形成された豊饒な濃尾平野は、日本有数の穀倉地帯でした。
室町中期に成立した国語辞典『節用集』には、尾張は『地厚土肥』と評されているほど実り豊かな地域であり、更に豊臣期の記録ではありますが1598年(慶長3年)の「太閤検地帳」でも尾張一国のみで、「石高57万石」という日本国内有数の農業先進国であります。
因みに、信長はその尾張に拠り、次いで美濃国(岐阜県南部)や伊勢国(三重県)を攻略したことは皆様ご存知の通りですが、前述の太閤検地帳に拠ると美濃の石高は54万石、伊勢は56万石と両国と共に50万を超える大国であります。
1568年(永禄11年)、信長は足利義昭を奉じ上洛を敢行した際には、既に約150万石の農業経済大国を基盤としたいたのであります。
同時代の英雄・武田信玄(1521~1573)が、甲斐国(山梨県)22万石と信濃国(長野県)40万石の2ヶ国を10年以上賭けて、信濃の諸勢力、次いで強敵・長尾景虎(上杉謙信 1530~1578)の死闘を繰り広げた末に漸く切り従えた結果が、僅か62万石であるということを思うと、信玄が終生味わい続けた地の不利を思わざる負えないのですが、それと同時に信長が当時で有数な穀倉地帯でもあった東海地方に拠れた地理的好条件がより光彩を放っています。

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信長が拠った尾張が戦国期での有数な穀倉地帯であったことは上記の通りでございますが、尾張の好条件は農業先進国のみであったことに留まらず、それに伴って商工業、流通業も非常に盛んでありました。
寧ろ、他国より食料が潤沢である濃尾地方であったからこそ、多くの人々を養うことができ、それに伴って、商工業も発展を遂げたというのが、事実かもしれません。
英国の経済学者であったコーリン・クラーク氏(1905年~1989年)は、我々が時折経済学などで耳にする「第1次産業(農林漁産業など)」「第2次産業(製造業や建設業や工業生産)」という産業分類用語を考案した大先生でありますが、またクラーク氏は『経済社会の発展は、第1次産業から第2次産業へと重点がシフトしてゆく』というペティ=クラークの法則も主張しています。 
「民は食をもって天となす」(漢書)という中国大陸の格言がある通り、生存している全ての人間が生きてゆくためには「食」が必要であり、食を産する農林漁業(第1次産業)が脆弱でれば、民衆(世情)は乱れ人口が増えず、商工業(第2次産業)の発展も望めません。
日本の15世紀中期~16世紀全般、即ち室町後期(戦国期)は、あれ程、日本各地が戦乱の嵐が巻き起こったにも関わらず、全国的に開墾・干拓事業・農具改良が盛んになったことにより農業生産力が飛躍的に向上し、人口は増加。
非食料生産者である武士や商工業者の人口も増加し、商工業や流通業が大発展を遂げ、地方各地の有力な戦国大名の本拠地には武士や町人が住まう政治・経済の中心地である「城下町」が本格的に発展してゆくようになりました。
越後国(新潟県)の長尾氏の本拠・直江津、相模国(神奈川県)の後北条氏の小田原などが、当時有数の城下町として好例であると思うのですが、信長の尾張(清州・那古野など)は最たる土地柄でありました。
テレビなどでお馴染みの東京大学史料編纂所教授であられる本郷和人先生は、著書『日本史のツボ』(文春新書)の中で、戦国期のことを『日本史上初めて地方が主役となる時代が訪れたのです』(「第5回 地域を知れば日本史がわかる」文中より)と書かれておられます。戦国期は京都が戦乱によって荒廃し、代わって地方に戦国大名が割拠し、それらの拠点(城下町)が発展してゆく状況でした。
平安期より日本全国の政治・経済流通の心臓部であった「京都(西国)」、源頼朝が関東武士団に擁せられ武士政権が勃興した「鎌倉(東国)」。
その東西を繋ぐ大動脈・東海道を有し、京都と関東の丁度真ん中に位置する尾張は、前述のように濃尾平野を有し、四方に陸路も拓けていました。
そして、天然の農業用水路、水運用水路という木曽三川が流れ、伊勢半島と知多半島に拠って抱かれていた伊勢湾は、海上交通(物資流通)の要衝でした。
特に、奈良期(9世紀頃)から津島牛頭天王社が鎮座し、門前町かつ木曾川と伊勢湾を繋ぐ河口湊として殷賑を極めた『津島』、同じく門前町・港町として栄え、江戸期には東海道最大の宿場町とされた『熱田』という2つの水上流通拠点は尾張国内の経済拠点の双璧でした。
この2大拠点を掌中に収めたのが、信長の祖父である織田信定、父・織田信秀の2人であります。
この2人無くして、後年の信長の大躍進はありませんでした。

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信長の祖父で織田弾正忠家の当主・信定(信貞とも、?~1538)は、尾張守護代織田氏(大和守家)の奉行の1人であり、決して高貴な家柄ではありませんでしたが、信定は中島郡・海西郡に勢力圏を伸ばし、津島を抑え、永正年間(1500年代前半)には、津島の支配権を更に確固するために、貴族・大中臣氏の居館跡に勝幟城を築城し、弾正忠家の本拠としました。
また信定は、古くから津島の有力国人領主であった大橋氏との関係を深めるために、信定の娘(孫娘とも)を大橋清兵衛重長に嫁がせています。
1532年頃から、隠居した信定から弾正忠家の当主の座を受け継いだのが、「信秀」、信長の父であります。
一時期ながらも隣国の西美濃や三河国安城(愛知県安城市)などを切り取り、「尾張の虎」と称せられるほどイメージが強い信秀でありますが、彼が活発な軍事活動を採ることが可能であったのは、やはり津島から得られる経済力(主に港の関銭=関税)のお蔭でした。
信秀は、信定から受け継いだ重要な財源・津島に次いで、新たな強固な財源基盤を手に入れます。
それが『熱田』であります。
信長が桶狭間の戦いの折に戦勝祈願を行ったことで有名な熱田神宮が鎮座、門前町および港町として栄えていた「熱田」も支配下に置いたことで、信秀(弾正忠家)の経済力は更に強固なものとなったことは間違いありません。
その証左として有名なものとして、信秀は伊勢神宮の外宮移築の資金700貫を寄進したり、朝廷には4000貫(現在の価値にすると、何と約6億円!)を献金、活発な外交を行う一方、勝幟城から始まり、那古野城、古渡城(熱田支配を目的)、末森城(駿河今川氏対策)と、情勢に応じて本拠移転や築城も積極的に行っています。
当時の戦国大名が軽々に本拠を移転しなかった風潮の中で、信秀は本拠移転を合理的に行っていたのであります。
本拠移転は息子の信長の方があまりにも有名ですが、信長は父・信秀が実施していた政策を見本として、信長流に大々的(全国的)にアレンジしたのであります。
以上のように、他国への出兵、朝廷に多額な献金、戦況に応じて本拠移転(築城)など信秀が正に縦横無尽に活躍し、次代の信長の大飛躍の基盤を築くことができたのは、津島・熱田という経済流通拠点を支配下に置いていたからであります。
信秀は残念ながら1552年に42歳の若さで病没してしまい、跡は信長が継ぎ、我々が良く知る英雄・信長の時代となってゆくのですが、もし豊かな経済力を持ち、智勇兼備の名将で家臣の信頼が厚かった信秀が長命であったら、我々は覇者・信長の英雄譚に想いを馳せるのではなく、信秀の大活躍ぶりに胸を躍らせていたかもしれません。
先出の司馬先生(名義:福田定一)が、未だ産経新聞社記事時代(昭和30年)にお書きになられた『名言随筆サラリーマン ユーモア新論語』(文藝春秋)という随筆集があり、2016(平成28)年に、『ビジネスエリートの新論語』と改題され出版されました。
本書では、「サラリーマンの英雄」と銘打って徳川家康の働きぶりを紹介している項目がありますが、その文中で信長の事も以下の通り紹介されています。

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『いわば彼(筆者注:信長)は、社長(同注:信秀)の御曹司なのだ。
大学を出るなり親の会社を継いで、機略縦横、ついに十倍のスケールに仕上げるという鬼っ子なのである。』

 
津島を手に入れた信定、更に熱田を手に入れ、それらを元手にして守護代の分家筋から尾張国内の有数勢力に押し上げた信秀。
この父祖が遺した「経済力」「経済戦略」を受け継ぐことができたからこそ、信長は、合理的な人材登用・商業政策・軍事改革などを他の戦国大名に先駆けて活動的に行うことが出可能となり、最終的に天下の覇者まで昇り詰めることが出来たのであります。即ち、決して中国の英雄・劉備玄徳のような徒手空拳の身から這い上がったのでなく、父祖の遺産で信長は大きくなれたのであります。
  
筆者が深く尊敬する歴史学者の磯田道史先生(即ち、平成の司馬遼太郎)が、ご自身が司会されている番組『英雄たちの選択』(NHKBSプレミア)で、桶狭間の戦いにおける信長の決断を紹介した回(「シリーズ戦国合戦の謎⓶桶狭間の戦い 信長を天才にした逆境」)の中で、信長と織田氏のことを以下の通り語っておられます。

『信長から、織田が新しくなったイメージがあるかもしれませんが、これは僕は間違いだと思うんですよ。
実は、お父さんの信秀の時からかなり変わった家なんですね。
「銭」を収入の中心に据えられている。
あるいは「新しい」。
「非常に活動的」である。
という点で、信長が偉いとされていることの初期の半分以上は、お父さんの時に出来上がっているんですね』

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上記のように磯田先生が仰られるように、戦国随一の天才・織田信長は、農商業盛んな尾張国、そして、その宝庫を抑えた信長の父祖によって誕生したのであり、決して信長という一個人のみで天才信長(司馬先生のいう『鬼っ子』)が誕生したわけではないのです。

(寄稿)鶏肋太郎

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