鎌倉末期に台頭した武装集団『悪党』とは?非農業系職種を生業とした武士たち

 日本の12世紀後半、後進地帯であった関東地方(坂東)に興った東国武士団が、平氏追討、対京都朝廷戦の承久の乱(1221年)の勝利者となり、約700年に及ぶ長期武士政権の礎を築いた「時代改革の尖兵」であったことは疑う余地がない史実ではありますが、彼らの本来の姿は、農業開拓や馬育成を生業とする『武装農場主/農業経営者』であったことは、以前の記事で書かせて頂きました。
 京都朝廷、その支配下である国衙(国司)による租税・労力徴収や農地没収の脅威に晒されていた弱者・東国武士団が、源氏の嫡流・源頼朝を推戴して坂東、鎌倉という地を拠点として、武家政権を創始したことも先の記事で書かせて頂きましたが、その目的はただ一点、『自分たちが開拓および経営している農地農村の領有権を護るため』(所領安堵の獲得)であります。

スポンサーリンク


 東国武士団と源頼朝が樹立した武士政権。作家の司馬遼太郎先生は、武装農場主連合である東国武士団が立ち上げたので『日本史上初の農民政権』と称されていますが、その中世期の農地農村を所有する武装農場主たちが内閣となった政権(鎌倉幕府)でありますから、武士たちにとって何より尊重されたのは『土地/農地』であり、それを巡って武士たちは、お互いに戦ってきたのであります。
 鎌倉政権樹立前の西国・東国でも、京都朝廷・大社寺・武士といった三つ巴の内訌を含め、鎌倉政権成立後に、朝廷・社寺の権門勢力と武士団の利害調整役であった初代鎌倉殿・源頼朝が急死後に、有力御家人(東国武士団)内で、バトルロイヤルが展開した主な発端は、ほぼ「土地争い」(所領争い)であります。そして、その土地争いを生き抜き、武士政権から公的に農地農村の所領安堵を得た武士、即ち農場主武士が『正規武士』として、世間で是認されるようになってゆくのであります。それが中世期に、東国の鎌倉に興った武士政権の鉄則と言っていいでしょう。
 皆様よくご存知の通り、開拓可能な土地というものは有限的資産であり、特に国土が狭い上、平野部が少ない日本列島という地理的環境にして、現代よりも開発道具や技術に乏しい中世期では、更に開拓可能な地域は限定されたものになっていきます。だから、正規武士(農場主武士、鎌倉御家人)たちは、既に開拓済みである他の農地農村の収奪機会を、隙あれば狙っていたのです。他の武士団は勿論、親兄弟・叔父・従兄弟といった同族内でも、限られた土地を巡って争っているのであります。平安中期の平将門の乱、鎌倉草創期に発生した曽我事件(曾我兄弟の仇討ち)といった歴史的有名な事件は、いずれも「同族内(身内同士)の土地争い」が発端となっています。
 平安~鎌倉初期にかけて、「農場主武士=正規武士/御家人たち」は有限の土地を巡って、同族内や仲間内で骨肉相食んでいる状態であったのですが、その勝者は正規武士(鎌倉御家人)として存在する以上、その競争における敗北者/脱落者たちも当然存在しました。即ち幕府や京都朝廷(大社寺も含む)の管轄外の人々であります。
 そして鎌倉末期頃、その農地農村争奪戦の敗北者の末裔たちや反幕府的武士たちが、表題に挙げたキーワードである『悪党』という決して農地農村のみに拠らない、『非農業者たる規格外武士/武装者』の集団(党)を成すようになってゆきなり、その集団が、初代武家政権である鎌倉幕府倒幕という歴史的大業を成し遂げる原動力の1つとなったのです。
 『悪党』、或いは『溢れ者(あふれもの)』(太平記)とも呼ばれた人々であります。この『悪』という意味は、現代の我々が考える悪とは異なり、当時の悪は、強者(つわもの)として適用されており、別の意味では法規や常識に縛られない人々に対しても用いられました。
 そのアウトロー的存在であった悪党の代表的存在が、明治期以降から昭和の太平洋戦争終焉まで、皇国の守護神として尊崇対象となる大楠公こと『楠木正成』、正成と同じく南朝方の有力武将の1人として活躍する『名和長年』、播磨に拠り、鎌倉幕府倒幕に戦功を挙げ、後に足利尊氏(北朝方)の一翼を担うことになる『赤松円心(赤松則村)』たちであります。
 楠木正成・名和長年・赤松円心。この3者に共通しているのは、後醍醐天皇(のちの南朝方の首魁)が主導する鎌倉幕府倒幕軍として日本史の表舞台に初登場し、南北朝争乱期にも活躍した悪党の代表的存在というのもありますが、他にも幾つか共通している点もあるのでございます。それらを以下に列挙させて頂くと・・・

⓵「西日本各地の山間地帯の出身者である」
 
 楠木正成は河内国(大阪府東部)の金剛山麓を本拠とする在地豪族であり、名和長年は伯耆国(鳥取県西半分)の大山山麓を本拠地とし、赤松円心は播磨国佐用荘(兵庫県佐用郡)一帯を支配していた武士。山間を本拠地としている3勢力であるが、古来より商業流通が発展して先進地帯である西日本に存在していたことは重要である。寧ろ3者共に、山間地という地理利点を大いに活かて、山腹や頂上に城砦を築き、籠城戦を展開して、敵対勢力と有利に対峙していった。

⓶当時の武士の価値観では、奇怪とされていた「奇襲攻撃や籠城戦といったゲリラ戦、情報戦略が得意である」
 
 「太平記」の影響により、3者の中でも楠木正成の戦略戦術は傑出されたものとされ、後に中国の最高軍師とされる諸葛孔明と比肩されるほどに有名。金剛山系に属する山城を舞台とした「赤坂城攻防戦」「千早城籠城戦」といった少数で大軍の幕府軍を、ゲリラ戦や情報戦で翻弄する『寡を以って、衆を討つ』という正しく日本人好みの絶妙な作戦を展開しているが、山陰の名和長年も大山山系の船山城に籠城し、攻め手の幕府軍を撃退する戦功を挙げており、播磨の赤松円心も、奇襲戦法や佐用城籠城で、幕府軍を見事に撃退している。
 それまで正々堂々の一騎打ちの個人戦を主流とし、その鍛錬として弓馬の道、野外決戦のみを是としていた鎌倉政権の御家人衆(東国武士団の末裔たち)から見れば、楠木・名和・赤松が展開したとされる軍事行動は、正しく卑怯・アウトロー、『悪党の戦い方』ぶりであった。事実、「太平記」には、『悪党は籠城し、飛礫(つぶて)で攻撃してくる』という文面がある。
 大勢である幕府軍の補給路(兵站)を脅かす『後方攪乱』や『奇襲作戦』を用いる一方、将兵全員で山の上に築かれた砦に籠って、幕府軍を弓や「投石、飛礫(熱湯・排泄物も含む)」で、遠距離遊撃するというように、中世当時では斬新過ぎる作戦を用いた楠木正成らが用いた。
 鎌倉政権サイドの正規武士たちが、城に籠って弓や投石などで絶えず攻撃してくる楠木正成らが用いる卑怯な戦法を用いる不気味な存在感を放つ輩という意味を込めて『悪党』と強く蔑視したのではないでしょうか。
 因みに現在でも、不正や違法な行いをした人を「あいつは悪党だ」と罵ることがよくありますが、この時の「悪」という意味は、鎌倉末期~室町期(南北朝争乱期)に登場した非正規武士こと悪党たちに拠るものです。
 
 (そして、次の⓷こそが、最も重要な点であると筆者は思っております)

古来より先進地帯であった西日本を拠点とした「商業活動者、或いはその関連者であり、それに通じる多角的な人脈を持っていた」
 
 全国に数多点在する武士を統括している鎌倉武家政権(北条得宗専制)が、一地方の武士団(悪党)に過ぎなかった楠木正成・名和長年たちの反旗が起因となり、最期は、鎌倉方の有力御家人(最大農場主武士の頭目)の足利尊氏(当時は足利高氏)の裏切りによって滅ぼされることが周知の通り。
 何故、楠木正成たちのような(鎌倉幕府から見れば)極めて小規模に過ぎなかった西国の豪族が、仮にも全国武士団を統括する強大な鎌倉武家政権を相手にして、反旗を起こし、かつそれが結果的に成功したのか?という疑問が浮かんできますが、その理由は、楠木正成たちが、鎌倉末期に急成長していた産業『商業流通(貨幣経済)』に勤しむ商業活動者で、他の農業型武士団(即ち鎌倉御家人)に比べて、経済力に恵まれていたことです。
現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代背景、即ち農場主武士が勃興し、東国の鎌倉にて日本初の本格的武士政権が樹立させた12世紀後半~13世紀前半では、米穀や絹(律令制でいう租や調)が中心になって動く経済体制であり、公家や武士たちは農業開発のみに勤しんでいれば良かったと思いますが、13世紀中後期(北条執権体制の絶頂期や蒙古襲来前後)になると、中国大陸から大量な銅銭や文物が伝来し、貨幣経済(商品流通経済)が大いに活気付き始める頃です。中国産銅銭(宋銭)を日本国内に導入し、宋王朝との貿易や流通の活性化を目論んだ権力者は、武士の平清盛であることは周知の通りですが、その天才・清盛が播いた中世日本経済活性の種が、ようやく実り始めたが鎌倉中期頃からであります。
 それまで農業のみを生活主体としていた関東を本拠とする鎌倉幕府とその主宰者である鎌倉御家人たちは、流行しつつある新体制というべき貨幣経済内で苦悩させられることになります。
 先述のように、中国大陸から魅惑の溢れる舶来品や書物が九州博多(西日本)を通じて輸入され、日本各地にも流れていき、京都朝廷の本拠地の畿内、鎌倉幕府の本拠である東国にもその物流の波は訪れており、源頼朝が鎌倉に武家政権を樹立して以来、贅沢を戒める「質実剛健」の暮らしを旨としていた東国武士団の間にも、高雅な生活が浸透するようになりました。
 北条義時の傍系の孫に当たる鎌倉中期の北条実時(別名:金沢実時)は、鎌倉の国際港というべき六浦港(神奈川県横浜市金沢区)を直接支配した利点を活かし、大陸渡来の数多な文物を輸入し、それを以って有名な金沢文庫の礎を築いたのは周知の通りですが、この実時の後世にも遺る書籍蒐集や買収の業績を鑑みても、東国にもようやく商品流通が浸透してきたことを証明していると思います。しかし、北条実時のように商品流通の波を活かして、東国の文化向上に貢献できたのは、彼のように高級的鎌倉御家人かつ教養人だったからこそ可能であり、他の一般的鎌倉御家人にとって商業の勃興は微妙なものであったに違いありません。
 それまで日本有数の田舎地帯で、農業のみを主体とした質素な東国地方も商品流通の活性化によって、同地の生活水準も上昇傾向になったという利点も挙げられるのですが、反面、先述のように、農場主武士出身であり、その農産業や農地管理のみを注視していた東国武士団/鎌倉御家人たち守旧派にとっては、新時代のにおいを強く持つ商品流通、それを活性化するために必要不可欠な貨幣(銅銭)に対する知識・技術や経験が非常に乏しかったのです。
 現代風に例えると、鎌倉御家人たちには「貨幣経済という新産業に対してのビジネスセンスが無かった」と言えると思います。現在でこそ、農産物を大々的に売買するアグリビジネスという堂々たる産業分野が確立されていますが、中世当時では勿論、そのような商売方法が確立されているはずもなく、当時の農業は、飽くまでも権門勢力(朝廷や寺社)に納めるための米穀(租税)生産を主体とし、その残りを生産者たちが自分たちの日々の糧にするという産地地消の狭義的な産業に過ぎませんでした。
 当時から田舎の極地とされていた東国地方では、特に上記のような状況が濃厚にあり、その中で生きてきた鎌倉御家人は商業に対する免疫力が無いくせに、中国大陸や西日本から導入されてくる高価な舶来物に手を出す物欲心が強くなり、そのためには土倉(金融業者)から借金して、物品を買い集め贅沢な生活をするようになり、そして挙句には借金を返済するために、先祖代々受け継いできた命より大切な農地(土地)を切り売りするようになっていくのです。これでは初代鎌倉殿・源頼朝が訓戒した『東国武士は、質実剛健であれ』という逞しい武士団のイメージはありません。また左記の「武士は質実剛健」と謳った源頼朝の価値観が、鎌倉中期以降になると通用しなくなったことも意味しています。
 当然のごとく、農地を売り払った鎌倉御家人たちは、その分定期的な収入が減り、彼らはより弱体化していくようになってきます。即ち、商業流通、貨幣経済の勃興によって、鎌倉御家人たち、それらが中核を成す鎌倉幕府は足腰(根幹の農地所有)が蝕ばれていたのであります。正に、商品流通という新型流行感染症に対して、免疫力が無い鎌倉幕府は忽ち冒されてしまったというかたちであります。
 その貧困化が進んでいく鎌倉御家人たちに、追い打ちをかける出来事となったのが、2度の蒙古襲来、『元寇』であります。この国家防衛(厳密には西海道防衛)というべき戦に動員された御家人たちは、その戦費捻出のため、彼らの財政は悪化していったことは有名であります。また2度目の元寇(弘安の役)以降も、鎌倉幕府は御家人たちに西国守備継続(軍費負担)を命じたために、彼らは自分たちの唯一の資産である土地を切り売ってまでして軍費を賄うジリ貧状態になっていきました。
 そして本来、合戦に出陣してご奉公に励んだ御家人や武士たちには鎌倉幕府からその見返りとして、新たな恩賞=土地(新地給恩)を下賜されるが武家政権の鉄則(即ち「御恩と奉公」)でしたが、周知の通り、元寇は防衛戦であったために御家人たちへ与える新たな土地は一寸も無かったので、幕府は元寇に出陣した御家人・武士たちに恩賞を与えることは不可能でした。
 即ち鎌倉幕府の命令によって元寇の合戦に駆り出された御家人・武士たちは、結果的に大きな経済的負担を強いられた上に、ただ働きさせられたことになり、いよいよ全国の御家人や武士は鎌倉幕府に対して強い不満を持つようになりました。特に、元寇で蒙古将兵を多く討ち取る活躍を見せた九州肥後の有力御家人であった菊池武房は、一族郎党率いて戦ったにも関わらず、幕府から何も恩賞無かったので、これ以降、菊池氏は反幕府、親京都朝廷派になっていくことになります。
 
 鎌倉中期における商品流通・貨幣経済の活性化、それに伴って質実剛健を旨とした鎌倉御家人たちの間での奢侈化、更に元寇による武士団の貧困化、鎌倉幕府への不満などといった社会的不安情勢の間隙を這うがようにして、勃興してきたのが、西国の楠木正成・名和長年たち悪党勢力であります。
 日本中世史研究における偉大な学者の1人とされる網野善彦先生は、自著『悪党と海賊 日本中世の社会と政治』(法政大学出版局)文中にて、『鎌倉末・南北朝期は「悪党の時代」』と書いておられ、更に楠木正成を代表とする悪党のことを、以下のように記述されています。

 『非農業的な生業と不可分な関係にあり、遍歴性をもつ「職人」的武装集団とみることができる』(「第二章 悪党の系譜」より)

 網野善彦先生が言われる『悪党=非農業の職人的武装集団』とは、即ち農地農村を基盤としている農場主武士連合政権である鎌倉幕府とは立ち位置を異にする武士団であり、悪党が拠って立つ基盤としたのが、(何度ものべさせてもらっているように)、鎌倉中期に活性化した流通・貨幣を基軸とした『商業』でした。
 勿論、悪党は商業以外にも、その名に相応しく荘園領からの襲撃や強盗の悪行三昧もやった連中も存在したことは確かですが、それ以外にも、物品を売買・保管管理する「有徳人層」、それらを各地に運搬する「陸運業(馬借)」「海運業(海民)」を生業とする商業者たちを取り纏める頭目、更には当時新興勢力とされ全国各地を行脚する情報通の山僧・神人・猿楽師など宗教・芸能関係者たちを保護する頭目も存在しました。その著名な代表者が楠木正成・名和長年たちでした。
 楠木正成は、河内金剛山麓から産出される「金剛砂(研磨剤原料)」「水銀」を生産管理、それらを畿内一円に手広く販売輸送するという「鉱山業」と「商品流通業」を兼任した在地豪族でした。当然、商業活動に従事している楠木正成ですから財力も蓄えられましたが、それと同時に物品を広範囲に販売輸送することにより、畿内一円には正成によって形成された『楠木交易ネットワーク』も存在していたと言われています。
 特に、大和国に隣接している河内国(現在の大阪府南東部)を本拠としている楠木正成は、大和国や伊賀国の土豪、商人、神人、法師など悪党の部類に入れられた人々との連携が強かったと言われています。だからこそ一地方の土豪に過ぎない楠木正成が約1000の兵力で幕府軍100万(無論この数字は虚飾です)という大軍を相手に「赤坂城・千早城籠城戦」で長期に及んで善戦できたのは、大和と隣接する金剛山系の城砦に籠城し、背面の大和伊賀方面ネットワークからの支援があったからであります。
 楠木正成が大和伊賀のネットワーク形成に尽力していた逸話がもう1つあります。楠木正成の妹(NHK大河ドラマ「太平記」では樋口可南子さんが演じておられました)は、伊賀国内の有力豪族・服部元成に嫁いだとされており、この一事をとってみても、正成は河内東方の大和・伊賀方面に人脈を持っていたことがわかります。因みに、その正成の妹と服部元成の間に誕生したのが、服部清次、のちの観阿弥、のちの室町初期に能楽文化を大成させた世阿弥の父とされる人物であります。
 上記の楠木正成が観阿弥の叔父説は、学者先生方によって大方、否定的な意見となっていますが、正成を大叔父とする天才・世阿弥が記した歴史的名著『風姿花伝』の合理的かつ論理的な書法を読んでみるに、鎌倉末期には、珍しい合理的な軍略を発揮した楠木正成の血脈を受け継ぐ世阿弥だからこそ風姿花伝のような後世に遺る名著を書き出せたのではないか?と筆者は勘繰りしたくなります。
 
 楠木正成について一辺倒の記述になってしまいましたが、正成と同時期に、後醍醐天皇あるいはその第3皇子・護良親王(大塔宮)の令旨を奉じて、鎌倉幕府に反旗を翻した山陰の名和長年、山陽の赤松円心も商業流通を主眼とする非農業者の頭目的存在でした。
 楠木正成が河内をはじめとする畿内の陸運ネットワークの活用で勢力を蓄えた勢力とすれば、名和長年は、当時海運の主要ルートであった日本海に接する伯耆国名和湊(現:大山町御来屋港)の経済拠点を抑えた海運、更には製鉄業で勢力を蓄えた新興勢力でした。
 歴史作家・司馬遼太郎先生は、歴史紀行シリーズ『街道をゆく42 三浦半島記』にて名和長年(名和氏)ことを、『武士とも海運業者ともつかぬ、いかにも鎌倉末期らしい新興勢力』(「鎌倉陥つ」文中)と書かれておられます。前掲の歴史学者・網野善彦先生著『悪党と海賊』に拠ると、鎌倉中期から山陰山陽問わず、中国地方の海域には、製塩や漁業、操船・造船などを生業とする海民ひいては海賊衆が勢力を蓄え始めていたとされていますが、山陰の湊町を支配する名和長年も海民などを束ねる頭目的存在の有徳人(金持ち)の豪族だったと思われます。因みに太平記では、名和長年は鰯売りと海運で財を成したことが記述されています。
 後醍醐天皇主導の建武政権下で、一地方豪族(半ば海商)から「伯耆守」という国守、天皇直々に下賜された「帆掛船家紋」によって、絶大な権力を握り、京都では「伯耆様(ほうきよう)」と持て囃される名和長年ですが、それ以前の伯耆に拠っていた時期でも、漁業や海運で、相当羽振りが良かったことでしょう。その名和長年の豪奢ぶりが、農地農村の領有を基礎として、経済的に困窮していく鎌倉御家人たちは妬心の意味も込めて、長年を『悪党』と卑下した可能性も否めません。
 名和長年も、(楠木正成と同様)、伯耆大山の船上山に城砦を築き籠城戦に徹し、鎌倉幕府が派兵してきた大軍を弓や投石で迎撃した上、当時から西日本における天台宗の一大拠点であった伯耆国別格本山・大山寺の僧となっていた自身の弟・源盛、彼に従う大山宗徒(僧兵)を援軍として長年は活用していますが、この名和長年の籠城戦、僧兵の利用といった戦法も、幕府軍にとって奇異にして卑怯であり、正しく『悪党』の戦い方であったのです。
 

 楠木正成・名和長年は鎌倉政権倒幕に尽力し、後醍醐天皇の寵愛を受け、その後も南朝方の有力武将として、足利尊氏(北朝方)との戦いで散っていった悪党の系譜を受け継ぐ人物たちでしたが、その同様に属しながらも2人とは違い、天皇から冷遇され、後に足利方の有力武将として赤松円心(赤松則村)がいます。
 初期の室町幕府政権下での赤松氏は、播磨国など山陽4ヶ国の守護大名となり権勢を誇ることになりますが、その赤松一族の繁栄の礎を築いた赤松円心は、播磨の一土豪かつ悪党として、鎌倉幕府倒幕、次いで南北朝争乱(特に新田義貞との戦い)の折、奇襲作戦や籠城戦などで活躍しました。
 特に、赤松円心率いる3千が、鎌倉幕府の西国拠点・六波羅探題の大軍20万を夜襲で撃破した「摩耶合戦(瀬川合戦)」(1333年)、次いで南朝軍の総大将にして東国武士の名族である新田義貞が率いる6万とも言われる大軍を相手に、わずか数千の寡兵で、謀略などを駆使して約50日も善戦した「白旗城籠城戦」(1336年)は有名であり、この楠木正成に匹敵するほどの戦上手ぶりは悪党・赤松円心の面目躍如というべきでしょう。
 そのゲリラ戦の天才、前掲の網野善彦先生は『「職人的」性格を持つ武士団』と評している赤松円心ですが、陸海商業(非農業種)活動によって財力と人脈を形成していった楠木正成と名和長年の2者に比べ、円心が商業的活動の関連者であったことは希薄なイメージを筆者は持っていましたが、網野先生の『悪党と海賊』に拠りますと、やはり円心も自身の活動範囲であった播磨や摂津国内の商業拠点と関係を持っていたことがわかりました。
 赤松円心の子息(長男・赤松範資、次男・貞範)たちを、平安末期から瀬戸内海の交易拠点として栄えていた摂津尼崎(海士崎)在の鴨社領長洲御厨を統括する沙汰人(下級荘官)として在住させ、同地に住まい廻船業や漁業に携わる神人や海民を赤松氏の味方に取り込む人脈形成に力を注いでいます。また当時から戦国初期にかけて灯り油として重宝されていた荏胡麻の産地であった播磨国中津川に赤松一族を配置させて、同地の支配を固めています。
 赤松円心は京都朝廷との連携にも腐心しており、三男である律師妙善(後の赤松則祐。父と並び北朝方の有力武将となる)や同族の木寺相模を、天台宗比叡山延暦寺の僧として送り込み、後醍醐天皇の皇子にして当時の天台座主、鎌倉幕府倒幕の急先鋒的存在であった大塔宮護良親王との連携も画策しています。(尤も、この赤松円心の護良親王への接近策が建武政権で裏目に出てしまい、後醍醐天皇に嫌われるようになった親王に親しい円心も、天皇家から疎外されることになりますが)
 
 何度も記述させて頂いたように、当時、農地農村を政権体制の基盤としていた鎌倉幕府から見れば、楠木正成を含め日本各地に割拠していた数多の悪党は、『体制外集団』『異種異形、人倫に異なる』『非農民的職業集団』と評されたように、生計の立て方、戦い方、すべてが不気味かつ厄介なものであったのです。
 この日本の支配層からの悪党評は、中国大陸で、興亡を繰り返した歴代王朝(秦や漢など農地農村支配を基盤した政権)が、大陸外の四方に割拠して、王朝支配に従わない「非農業者勢力、即ち北狄・南蛮・西戎・東夷」として卑下侮蔑した華夷思想に相通じています。寧ろ、中世日本における支配階級(農村支配政権)が、古代中国の華夷思想を踏襲し、体制外にして商業などで生計を立て勢力を伸ばした人たちを、悪党と卑下したと思われます。
 歴史作家の司馬遼太郎先生は、12世紀末に関東地方で勃興した東国武士団、彼らが源頼朝を推戴して樹立した武家政権こそが、『日本が、日本らしい歴史が始まった瞬間』(「街道をゆく 三浦半島記」)という意味合いで評されていますが、古代6世紀頃より中国大陸の統治体制や思想文化を永らく倣ってきた日本でも、前掲の華夷思想が13世紀以降の中世日本にも、濃厚に遺っていたようであります。親鎌倉幕府の公卿にして『玉葉』の作者としても知られる九条兼実でさえ、当時未開の地であった関東に割拠する東国武士団のことを『夷狄俘囚』と記述しているくらいに、既存政権の体制外に属する集団を卑下する華夷思想がありました。
 極論を言ってしまえば、中国大陸の古代歴代王朝、日本の鎌倉幕府の支配体制と政治思想は、『農業重視(後の農本思想や重農主義)』『商業忌避』というものになってしまうのですが、これも古代中国思想が強く影響しているとされています。
 紀元前17世紀頃に誕生した「殷」王朝、別名『商王朝』(最後の王は、暴君として名高い紂王)が、同11世紀が周王に滅ぼされた後、生き残った商王朝に所縁があった人々、即ち『商人』が、自分たちの生計を立てるため、物品販売のため各地を行商(交易)したことが由来となり、商の人々が生業をしたから『商業』という熟語が誕生したと言われています。
 農業生産を政権基盤としている新生中国王朝の立場から見れば、滅亡し農地から追い出された商の人々が生きるために始めた生業・商業は『農地も持たない貧乏人が、余った農産物を売り歩く賎しい仕事』と蔑まれたのです。
 後々の中国王朝(前漢や唐など)でも、塩や鉄・酒などを専売制にすることで商業による富国政策を実施していますが、商業が勃興した起因が、先述のように、「土地を失った亡国の民が始めた産業だから」という蔑みがあり、儒学思想における「重義軽利」(義を重んじて、利を軽んじる)、老子の「小国寡民」(国土は小さく国民も少なく、皆さん質素に暮らす)という諸子百家思想を見てみても、利益ばかりを追求する商人は卑しく信用できない、という商業蔑視の考えが古代中国大陸にはあるように思えます。
 中国思想を濃厚に受け継いでいる日本でも商業を軽視するばかりか、社会的混乱を招くという大仰な思想があったことは事実であり、江戸中期の儒学者・荻生徂徠は自身が著した経世書「政談」では、当時殷賑を極めていた商業流通、貨幣経済を徹底的に忌避し、江戸幕府(当時の8代将軍・徳川吉宗)に重農主義を力説しています。
 江戸期の話まで降ってしまいましたが、商業従事者であった楠木正成たちが躍動した14世紀初頭、日本における中世初期の商業流通/貨幣経済の発展期でも、商業という新奇な産業に従事し、諸国を行商する者たちは奇異と蔑みの眼差しを以って見られたということは、当時の京都朝廷や大寺院の権門勢力・鎌倉幕府といった支配者側から『悪党』『異種異形』と呼称された挙句、幕府が、その「悪党/陸海の商業従事者たち」を反社会的勢力と認識して『悪党禁圧令』『海賊禁圧令』を幾度にも渡り発布、彼らを抑圧しようと躍起になっていることでも判ります。
 特に、14世紀前半、即ち鎌倉末期における楠木正成が拠る河内国、名和長年の伯耆国、赤松円心の播磨国、この西日本3ヶ国の守護職は、北条一族か六波羅探題が就任していたので、正成たちは鎌倉幕府からの圧力を受けていました。
 上記の鎌倉幕府の悪党への取締りや圧力が、楠木正成や名和長年たち西日本を拠点とする商業従事者たちを刺激し、彼らを倒幕に燃える後醍醐天皇側に走らせる結果になるのですが、幕府から悪党と蔑視される正成たちにも非農業種を生業していかなければならない理由があったのです。
 正しく『悪党にも三分の理』というべきなのか、農業を基盤としている『百姓政権』(司馬遼太郎先生の表現)というべき鎌倉幕府を主導する北条得宗家とその有力臣下・内管領の長崎氏、その他北条支族、また足利氏や小山氏といった有力御家人たちが、全国に点在する豊穣なる農地農村を抑えてしまっており、楠木正成といった河内国における片隅山岳地帯に拠っている小豪族では、田畑のみを耕す農業のみでは一族郎党が養えなかったという逼迫した事情があり、伯耆国や播磨国の山間を活動拠点としている名和長年や赤松円心たちも、正成と同様であったに違いありません。
 しかもその上で、楠木正成たちが生業としている商業流通、即ち彼らが唯一有している既得権益に対しても、鎌倉幕府は妨害をするようになってきたので、追い詰められた正成たちは幕府に対して反旗を翻したのが実情でしょう。「太平記」には、楠木正成が、大和笠置山で倒幕のために挙兵した後醍醐天皇直々の令旨を受けたことに感激し、正成も倒幕のために決起したということされていますが、本当のところは、幕府や河内守護から度重なる圧力に限界を感じて挙兵したところでしょう。
 因みに、鎌倉幕府を直接滅ぼすことになる鎌倉御家人の新田義貞は、幕府からの度重なる徴税催促に激怒し、その役人(徴税士)を斬殺したことが発端になり、倒幕挙兵に至っています。(ムリな取り立てはいけません)
 
 鎌倉幕府が、なぜ楠木正成らを悪党と蔑視し、締付けや圧力を掛けたのか?ということですが、やはり幕府にも深刻な内情があったのです。
 先述のように、14世紀中期になると日本にも貨幣経済が浸透、社会が活性化することにより、幕府が本拠地とする鎌倉の生活水準が上昇、東国の人々も様々な物品を購入するために西日本の富裕層(特に大寺院が支配する土倉)から借金し、その担保として自身が持っている唯一の資産である土地を抵当に入れ、借金を返済できなくなると、土地が没収されてしまう、という農地農村を根幹としている鎌倉幕府にとって、最悪な負のスパイラルに陥っていたのです。
 鎌倉幕府は、この打開策として、御家人たちの借金を帳消しにする「徳政令」を実施しますが、却って債権者である富裕層の反発のみを買ったのみの失敗で終わり、今度は経済流通盛んな西日本の要所を独占しようと目論んだのです。しかし、西日本の発展地帯は、大寺院をはじめ楠木正成など豪族たちが抑えてしますので、鎌倉幕府は、お得意の武力を用いて、大寺院勢力が支配している経済要地、その代理管理をしたと言われる楠木正成らを駆逐しようと、西日本でも要衝であった河内や播磨に北条一族を守護として差遣したのです。
 このようにして見れば、鎌倉幕府倒幕戦は、農業政権を基盤とする鎌倉幕府と商業流通を生業とする楠木正成らを従えた後醍醐天皇主導の京都朝廷による『農業vs商業の産業戦争』と言えるかもしれません。
 結局、この戦争は周知の通り、鎌倉幕府の滅亡で終息するのですが、思えば、平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を興し、後鳥羽上皇が挑んできた「承久の乱」を制した鎌倉御家人たち、即ち東国武士団もそれ以前まで、唯一国内支配者であった京都朝廷から「東夷」と蔑視された挙句、租税徴収や京都警固役(大番役)など賦役で、精神的にも経済的にも圧力を受け続けた弱小勢力に過ぎなかったのですが、彼らは伊豆の流人・源頼朝を旗頭として結束、鎌倉に武家政権を築き上げて歴史の表舞台に登場したのです。
 しかし、幾多の苦難を乗り越え、鎌倉幕府を築いた東国武士団の子孫たち(特に北条時宗以降の北条得宗家)は、掌中にしている武家政権に慢心し、他者を軽んじ諸事独善的に振舞うようになったので、他の鎌倉御家人や在野の悪党たちといった武家政権内外から恨まれるようになったのです。
 即ち、鎌倉末期の御家人衆は、北条執権政治体制を確立した北条義時、その長子・北条泰時らの政治信条であったとされる『公平仁慈』の心を忘れてしまい、他者を武力で抑え、自身は奢侈に走ったことで自滅していった部分もあったのです。その鎌倉幕府の内部腐乱を、楠木正成や名和長年らに衝かれたことが嚆矢となり、最終的に政権内部の足利尊氏や新田義貞の造反によって、幕府と北条一族はトドメを刺された、という感じがします。
 
 鎌倉武士政権が産声をあげた平安末期(1180年~1190年代)、その政権が滅亡した鎌倉末期(1333年)。共に、時代の変革期であり、それぞれ時期の新興勢力(アウトロー的かつ侮蔑対象の存在)であった「東国武士団/武装農場主」と「悪党/非農業系武士」が、当時の混沌した情勢の中で立ち上がり、それを成功させているという歴史的事実、即ち『弱者やアウトロー的な存在が、時によって、新時代を創生する大きな力になる』ということを鑑みると、歴史の面白さを感じることを筆者は禁じ得ないのであります。

(寄稿)鶏肋太郎

改めて考察してみた中世に興った『武士』という存在~即ち『武装農場主/地主』
日本の武士と西洋の騎士が勃興した『中世』という時代
織田信長が優れた経済感覚を持てた理由

共通カウンター