前回の記事より、日本においての死刑についての歴史を種別ごとに解説を始めました。
前回は、日本においての絞首刑の歴史について解説いたしましたが、今回は日本における磔刑(たっけい)、はりつけについてご紹介します。
最後までお付き合いをよろしくお願い致します。
西洋では、紀元30年にエルサレムで行われたイエス(キリスト)の処刑に代表されるように遙か昔から行われており、ギリシアとローマにおいては主に国家への反逆者に対して行われていました。
この当時の具体的な処刑方法は、まず受刑者に鞭打ちを行い、何度か行った後に受刑者自らに処刑に用いる磔用の十字架を担がせ、刑場まで歩かせる。
刑場に辿り着いたら、受刑者を十字架の上に仰向けにさせ、手首に釘を打ち込み固定。
さらに足を45°まで開かせた後、固定。
固定したら衣服をはぎ取り、十字架を起こし、放置。
そこから大抵の受刑者は、手足の苦しみやそれらが原因となる心臓や肺などの異常により、壮絶な苦しみを味わいながら死に至ります。
これがこの当時の基本的な磔刑の流れになっており、紀元前1世紀のローマで活躍した詩人であり、雄弁家の代表格とされるキケロも自著にて最も残酷かつ残虐で重い罪であると、ハッキリと扱き下ろしております。
(そのキケロの最期は、アントニウスに暗殺されるという残酷なモノでしたが。)
続いては、日本における磔刑について説明いたします。
日本では、磔刑というのは天文18年(1549)にスペインからやってきたイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えたのと同時に磔刑も伝えられたと言われています。
西洋と比べるとかなり遅い時期から始まっていますが遅くなった原因は、これまでの日本において海外との付き合いと言えば、弥生時代に今の福岡県にあった奴国が西暦57年に後漢の光武帝から漢委奴国王印を授かるのをきっかけとして、
238年(239年説もあり。)に魏の皇帝から邪馬台国女王の卑弥呼に親魏倭王の金印が授けられたり、
飛鳥時代の遣隋使やその後の遣唐使などのなどなど(清盛の大輪田泊における日宋貿易や、勘合貿易などまだありますが、省略します。)、歴代中国王朝や朝鮮半島との付き合いが地理的に盛んであり、朝鮮半島から伝わった仏教も広く浸透していたため、戦国時代になるまで全く付き合いがなく、元に来ていたヴェネツィア出身の商人のマルコポーロが東方見聞録で、黄金の国ジパングと当時の日本からすれば、「盛りすぎだよ!」とツッコミを入れたくなる程の表現をされるほど西洋からも未開の土地の扱いを受けております。
話が逸れましたが伝来した時代の性のためか、戦に比例してキリスト教と共に新たな処刑方法として日本に広まっていきました。
この磔刑もですが、日本に入ってくると少し西洋と違っていきます。
(下にビーフシチューと肉じゃが。
東郷平八郎の写真を入れて下さい。)
まず、受刑者の衣服をはぎ取り、処刑用の柱に身体を縄で縛りつけます。
この時、男は大の字の体勢にさせ、女は十字の体勢をとらせます。
ちなみに、長篠設楽原の戦いの前に武田勝頼に磔に処された鳥居強右衛門を模した旗印が大の字になっているのはこのためです。
(武田勝頼を見限った長篠城主の奥平信昌の妻、おふうら3人も報復でこの刑に処されています。)
☝長篠合戦と奥平信昌と鳥居強右衛門の記事のリンクを入れて下さい。
先に述べた体勢をとらせたら、柱の左右から槍で同時に身体を貫かせます。
その後は、槍を何度か刺した後、喉に槍を刺して槍の出番はここで終了です。
その後は、放置しました。
こうして見ると西洋のやり方よりは、受刑者の苦しむ時間は少なくなるでしょうが、残酷さと見る者の心を穿つ衝撃は、西洋に負けず劣らずのやり方です。
キリスト教と磔という関係で切っても切り離せないのが、慶長2年(1597)に豊臣秀吉の命令によって行われたパウロ三木神父ら26人の宣教師とキリシタンの所謂、二十六聖人の殉教です。
いささか、豊臣秀吉はやりすぎだと個人的に思います。
時が下り、江戸時代以降では専ら関所破りや通貨偽造や主や親を傷つけた場合に用いられました。
ですが、例外もあり領主の悪政の改善を将軍に直訴した佐倉惣五郎も磔に処されました。
その後、磔刑は明治維新と共に日本の表舞台から姿を消し、一般の受刑者に対する死刑の方法は一部の例外を除き、絞首刑のみとなりました。
そして令和の御世でもそれが受け継がれています。
こんな記事を書いて恐縮ですが、凶悪犯罪や犯罪が起こる温床は根絶して欲しいです。
今回もご覧下さり、ありがとうございました。
次回もお楽しみに。
(寄稿)リストクラッチ式ショーイチ
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