織田信長の本拠移転から見る「デベロッパー」(土地開発者)という側面(岐阜・安土編)

本能寺

 尾張一国(愛知県西部)のみを制していた戦国大名・織田信長(1534~1582)が、戦国期を代表する群雄、次いで天下の覇者へ向けて急成長する一歩が、1567年に美濃国(岐阜県南部)を制圧したことであります。
 現在でも名古屋市(尾張)は、中部地方の中心地として存在していますが、当時から尾張も農業生産力(太閤検地で約57万石)が高い上、地が拓け東海道や伊勢街道の陸路も通じ、伊勢湾などの海上交通も盛んな農商栄える土地柄でしたが、戦国期に信長が新たに制した美濃も尾張に匹敵するほどの豊かな国でした。
 美濃は、西日本と東日本の殆ど中央部に位置し、中濃・西濃の両地域の平野広く、石高も約54万石と日本有数の穀倉地帯であり、兵も強く、また関ヶ原という「中山道(旧東山道)」「北国街道」「伊勢街道」が合流する交通の要衝を国内に有して陸路交通に恵まれています。

 『美濃を制する者は天下を制す』

 上記の名言は、偉大な作家・司馬遼太郎先生が自著『国盗り物語』および『新史太閤記』(共に新潮社)でお書きになられて、世間一般に知られるようになったと言われたいますが、事実、信長が美濃を制した一年後(1568年)には、流転の将軍候補であった足利義昭を擁し、4万とも言われる大軍で上洛を開始。その勢いで、信長は、近江国(滋賀県)の南部などの畿内の一部および伊勢国(三重県)の大半を織田氏の勢力下に組み込んでいきました。即ち、信長は美濃を制した僅か1年~2年後に、生産力が高く、商工業が盛んな東海から畿内まで勢力圏を伸ばしたのであります。この信長の急成長ぶりを鑑みても、当時の美濃国の重要性がわかるのであります。
 因みに、美濃を制するまで尾張を本拠にしていた信長は、(有名な桶狭間の戦い(1560年)の快勝は例外として)、美濃攻略での合戦では、斎藤氏とその配下の強力な美濃将兵たち相手に結構厳しい戦い(負け戦)を強いられており、外交工作や棟梁保構築(小牧山城本拠移転や墨俣城築城)などを粘り強く行った結果、桶狭間から7年後に斎藤氏と美濃国の本拠地・稲葉山城を攻略にようやく成功し、織田氏の本拠地とすることができました。
 稲葉山城、鵜飼いで有名な長良川河畔沿いの峻険な金華山(稲葉山、標高:328m)に築かれた山城は、日本の中央部たる美濃のほぼ真中に位置しており、四方(濃尾平野)を一望できる地の利を占めています。鎌倉期に、御家人・二階堂氏(後の稲葉氏)によって砦が築かれたのが稲葉山城の始まりとされ、現在のように山頂に城砦が築かれ始めたのが、信長の舅である斎藤道三(利政)の頃と言われています。
 道三は稲葉山城を改築する同時に、山麓南側を中心(百曲通り)に大規模な「縦割り城下町(当時名称は井ノ口)」の町割も始め、その町内では「自由経済」を敷き、商業を活性化を図っています。「縦割り城下町」と「自由経済」、後世の「安土城や大坂城の近世城下町」、有名な「楽市楽座」という2つの町建設と商業政策を、信長に先駆けて道三は稲葉山城と井ノ口城下町で実施していたのであります。

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 『信長が、経済を重視して、或いは流通を重視して、城下町政策、或いは経済政策をしてゆくお手本と先生役だったのが斎藤道三と言ってよいのではないかと思います。』

 これはテレビでも大活躍されている城郭考古学の第一人者でいらっしゃいます千田嘉博先生(奈良大学教授)が、人気歴史番組『英雄たちの選択』(NHKBSプレミアム)で斎藤道三を扱った回(「戦国ミステリー 斎藤道三はふたりいた!?~下克上の真実~」)にご出演された際に、仰った事でございます。
 僭越にも、筆者が千田先生のご発言に付け加えさせて頂くと、信長は実父の織田信秀から初め経済流通、そこから誕生する銭の力、更に本拠移転を学び、義父である道三から経済流通の発展には欠かせない城下町建設や楽市楽座などの諸政策を学び、更に知恵を磨いていったのではないでしょうか。つまり信長にとって「2人の父」が先生であったということであります。
 戦国期=室町後期は全国的に農業生産力が向上し、商品流通も大いに活発になった時を生きていた信秀・信長父子、道三の三者の共通点を挙げさせて頂くと、「全国的にも群を抜いて農商業が盛んであった濃尾平野、しかも各々商業/商人と所縁ある家に誕生し、自ずと商品流通についての知識が良く身に付ける環境に居た」ということであります。
 何れにしても、合理主義精神が強い信長が、美濃の中心部に位置する地理的好条件に恵まれ、道三が遺してくれた稲葉山城とその城下町を見逃すはずは無く、美濃攻略のために一から築いた小牧山城と城下町を棄て、稲葉山城へと本拠移転をしたのは自明の理と言えるでしょう。

 諸説はありますが、信長が、学問の師である沢彦禅師が提示した『周の文王、岐山に拠って天下を定む』の「岐」の字と儒教の開祖である孔子(孔丘)の出生地である『曲阜(山東省)』の「阜」を合わせ、稲葉山城を『岐阜城』へと改名し、それに伴って井ノ口と呼ばれていた城下町も『岐阜』となったことも有名であります。
 現在の岐阜県という地名は、正しく信長の大志の所産というべきですが、その岐阜城を信長は大改修を行い、金華山頂には天守を建て信長自身やその家族はそこに居住していたと言われ、また山麓南(現在の岐阜公園一帯)にも、迎賓館および政庁の役目として、広大な庭園と金箔などで彩られた豪華絢爛な御殿が建てられ、そこは信長と親交が深かった五摂家の公家・山科言継、堺の豪商・津田宗及など上方の有力者、ひいては宣教師のルイス・フロイスやフランシスコ・カブラルといった外国人(南蛮人)の接待場所として利用されていたことが記録に残っています。
 信長は豪華絢爛な御殿を建てることによって、内外の人々に織田氏の経済力を見せつけることを目的としていることは明らかであり、またこの後の城の有り様も「戦うための機能」から『見せるもの/権威の象徴』というランドマーク的な存在に変化していったのは、小牧山城・岐阜城・安土城といった信長の本拠移転および城郭建築が嚆矢となっています。
 権威の象徴(見せる城)として、豪華絢爛に城郭を建てるには、やはり「先立つもの」、つまり強大な経済力が必要となってきますが、信長は岐阜城下町で有名な経済政策=自由商業策を大々的に実施し、商業活性化を図っています。それが皆様よくご存知の『楽市楽座』であります。

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 本来、楽市楽座(楽市令とも)は、信長独創の経済政策ではなく、南近江・観音寺城を本拠地とする戦国大名・六角定頼が、1549年に観音寺城城下町である石寺にて楽市楽座を行ったとされるのが元祖であり、他にも駿河今川氏、小田原北条氏といった各地方の有力戦国大名も信長に先んじて領国内で楽市楽座を行っています。しかし、信長は上記の戦国大名に比べて、大規模に楽市楽座を行ったことは確実でありますので、後世「楽市楽座=信長のオリジナル」と位置付けされ、信長の革新性の評価を高める一因にもなっていたと思います。
 信長が楽市楽座を、公式で最初に行ったのは美濃制圧を果たした同年(1567)で、場所は城下町の一部であった加納であります。その際に城下の辻に建てられた信長花押入りの楽市令制札(円徳寺宛て等)が4枚、岐阜市に現在でも残っており、それらは国の重要文化財とされています、
 信長が加納で敷いた楽市令は、それまで斎藤氏との戦いにより町から逃散した民衆たちを呼び戻すことが第一目的とされ、その楽市制札には、『さかり代(営業税)、借銭・借米・地子(土地)代などの諸役令免許』が第1条に書かれ免税措置が採られており、そして次の第2条に、市場内での狼藉・喧嘩・口論を禁止事項として注意を促した上で、『楽市楽座之上諸商売すへき事』と楽市楽座の文字を使って自由に商売することを、信長は制札を通して推奨しています。
 『営業税や土地代の免除するから、運上金(売上税)だけ治めて城下町で規則を守って商売すればウエルカムだよ』と信長は言ってくれているようなものであり、この結果、戦乱で荒廃していた岐阜城下町には人々が戻り、殷賑を極めたのであります。その証左として、貴重な日本戦国期の観察者というべき宣教師・ルイス=フロイスは1569年に岐阜を来訪、城下町の賑わいぶりを以下の通り評しています。

 『取引きや用務で往来する人々がおびただしく、 バビロンの混雑を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬や反物その他の品物を抱えた商人たちが諸国から集まっていました。』

 (以上、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス 日本史2 織田信長篇2」文中より)

 以上のように楽市楽座を岐阜城下町で大々的に行い領内の商工業活性化に努めていったのでありますが、それと同時に商品およびサビースの消費者(顧客)をも城下町に集住させ、更に経済の活性を行っています。その消費者こそ信長の家臣団や足軽といった常備兵であります。
 信長は各々領地と城館を持って根城としている重臣層(農業武士団)をそれらから引き離し、本拠地である居城の周辺に武家町を造り、そこに集住させ機動力に優れる専業武士団を形成する所謂「兵農分離」の先駆けを敢行したことでも有名ですが、信長は重臣層および馬廻・小姓衆、それらの下で働く足軽兵を一挙に城下町に住まわせ、軍事訓練および合戦に従事させる一方、その集団とその家族を純粋消費者として、同じ城下町に住んでいる商人や職人が作った商品、あるいは馬借業が搬入してきた食糧などを多くの品々を買わせ、より城下町の景気を揚げていったのではないでしょうか。
 因みに、信長の岐阜城下町に集住させられていた木下藤吉郎、後の豊臣秀吉の正妻・北政所(寧々、高台院)が、同じく城下町に住んでいたご近所の前田利家(加賀百万石の開祖)の正妻・まつ(芳春院)と「屋敷の垣根越しで立って親しく談話した」ということを後年回想していますが、これは丁度、信長が岐阜城に本拠を遷し、城下町に楽市楽座を敷き、家臣団を集住させた1568年~1575年頃の約8年間の出来事であります。
 上記の約8年間と言えば、足利義昭を奉じての上洛から始まり、義昭との対立、金ヶ崎退却、姉川の戦い、比叡山焼き討ち、一向一揆衆との合戦など信長生涯の中で最も悪戦苦闘していた時期(いわゆる、元亀天正の信長包囲網)であります。
 その時期の初めの頃に、信長が大軍率いて義昭を奉じ上洛した後、明智光秀や丹羽長秀などを京都奉行職に任じ京都の統治を任せて、一旦本拠地の岐阜城へ帰還した直後、仮御所として京都本圀寺を滞在していた義昭(当時既に足利幕府15代将軍)を、信長に京都を逐われていた三好三人衆、旧岐阜城(稲葉山城)の主であった斎藤龍興などが1万の大軍を率いて襲撃する事件がありました。
 これが「本圀寺の変」(1569年1月)であり、義昭を護る明智光秀など2千の将兵の織田軍は本圀寺に籠城し、幕臣・細川藤孝などの援軍などを得て三好・斎藤連合軍の攻勢を凌ぐ一方、岐阜に帰還していた信長にも三好襲来を急報。報に接した信長は大雪にも関わらず、直ちに京都へ向けて出陣し、3日かかる行程を強行軍で僅か2日で本圀寺の救援に到着したことは有名であります。
 本圀寺における信長の強行軍は、織田軍の桁外れの機動力の高さを物語るものでありますが、これを可能にした一番の要因は、岐阜城下に主だった家臣団および足軽を「常備軍」として集住させ、号令一声で軍勢を時期を問わず進発させる体制が整っていたからであります。更にその常備軍の編成を可能にした根本は、やはり岐阜城下で楽市楽座を敷き、常にお金・物資・人が町に集め、経済力を保持していたからであります。
 随時動員可能な「大規模な常備軍」、それを養うための「財力」、この2つの基盤があったからこそ信長は、(彼個人の不屈の精神と果断な性格もあると思いますが)、1570年代、四方を大敵に囲まれた「信長包囲網」という存亡の危機を脱し、天下の覇者へと進んでいった大きな要因だったと思います。そして、足利幕府を滅ぼし、東海北陸から畿内、中国地方へと広大な領域を保持し、名実共に天下の覇者となった信長が、岐阜城(尾張・美濃の統治権も含む)を嫡男の織田信忠に譲り、新たな本拠地としたのが、南近江の「安土城」であります。信長が岐阜城を本拠地したのは、1567年~1576年の9年間であり、この間に、岐阜城を本拠地して以来の信長のスローガンというべき『天下布武』の礎が、正しく創られた時期でありました。

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 1576年、信長は南近江の琵琶湖と大中湖(1964年に埋立される)に接する198mの安土山(旧:目加田山)に、豪華絢爛な大天主閣(地下1階地上6階建て 天主の高さ約32m)を中心とする総石垣の巨大城郭『安土城』を築き、同地を新たな本拠地としました。
 元々、安土山とその周辺の地域は、かつて南近江の守護大名であった六角氏の配下国人領主であった目加田氏の領地(村落)であり、山には同氏の城館があり、六角氏の本城・観音寺城の支城的役目をされていたと言われます。
 敵方であった六角氏などを斃し、畿内を制圧した信長は、織田氏の本貫地である濃尾平野、自分の勢力が伸張しつつある西日本や北陸への統治により睨みを利かせるため、目加田山を新たな本拠地として選定、大掛かりな土木工事で、山頂には自身の居住区でもある天主を築き、山全体を石垣で覆い、南側山麓には横幅6mを超える直線大手道を通すという、ありふれた田舎にあった山を一転させるほどでした。
 信長3番目の本拠地であった尾張の小牧山城でも、信長は山全体を石垣で改造、横幅広い直線大手道を通すほどの大普請を敢行することにより、当時の宿敵であった美濃斎藤氏とその配下の国人衆など内外の勢力に、織田氏の経済力の強さを見せつける政治パフォーマンスをやっていますが、その集大成が5番目の本拠地である安土城であった言えます。即ち、当時の首都・京都の人々、そこに中山道を通って入ってゆく人々に対して、天下の覇者となった織田氏の巨大権力を、安土城を象徴として強調したのであります。
 新潮社から発売された司馬遼太郎先生の講演会CDシリーズの中で、『建築から見る日本文化』(第1集)というのがありますが、その中で司馬先生は『建築家(アーキテクト)』としての信長を以下の通りに評されておられます。
 
『北陸から来る人が琵琶湖伝いで、安土城を見る。そして東海道・中山道から京都に入る人も安土城を見る。それは「建物が権力の1つの大きなモニュメント(記念建物)であり、或いはランドマークである」、ということを知っているということが、信長が建築家であった証拠であります。』

『織田信長は、優れたデザイナーが同時に建築家であり、施工主であった』

(以上、「織田信長は第一級の建築家であった」より)
 
 優れた建築家かつ施工主であった信長が、豪華絢爛な安土城が完成したのは司馬先生が仰られた上記の通りでございますが、信長が南近江の一田舎にある安土山を選定した理由は、当時、織田氏の畏怖的存在であった北国の上杉謙信の京都侵攻に備えるためという説もありますが、何よりも古代より北陸~京都間の最重要輸送ルートであった『琵琶湖の水上交通』を把握するために琵琶湖(厳密にいえば琵琶湖東岸の大中湖)に接する安土城を本拠地と定め、一種の港湾都市としたのであります。
 河川・湖・海の水上交通全般の発着点、商業流通、ひいては他文化との交流点ともなる『港湾』を抑えるために、そこに巨大城郭と、それに連なる城下町をセットで構築して本拠地にするという偉大な構想は、信長の安土城への本拠移転(琵琶湖の港湾を抑えるため)が嚆矢であります。豊臣秀吉の大坂城、徳川家康の江戸城といった近世の城郭兼都市モデルは、全て信長の構想から始まっているのであります。更に言えば、愛知県の名古屋市、愛媛県の今治市、香川県の高松市、広島県の広島市、福岡県の福岡市といった現在の有名地方都市も、河口や湾港を抑えるために江戸期から発展した場所であります。

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 琵琶湖の話に戻ります。

 当時の首都である京都に住まう巨大人口の胃の腑を賄うために、偉大な食糧供給地の役割を果たしていた北陸地方は、米・塩、そして日本海の海の幸など多くの生活必需品を琵琶湖上を通じて、京都へ運搬されていました。現在でも、鯖が名産である福井県(旧:越前・若狭)の各地に、鯖を京都へ運搬するために、かつて使われた陸路や水路を「鯖街道」という通称名で遺っているのが、その好例であります。
 父祖の代より、伊勢湾の海上交通の要衝であり、織田氏の経済基盤であった「津島」「熱田」を掌中に治め、経済流通の強みを知り抜いていた信長だからこそ、北陸~京都間の大動脈路であった琵琶湖の水上ルートを把握する重要性を認識しており、その政策の一環として、近江のほぼ中央に位置する安土に城郭を築き、本拠地としたのであります。また安土城に本拠地を遷す前、足利義昭を奉じて上洛を成功した直後に、義昭から褒賞として副将軍や管領など室町幕府の名誉職への就任を打診された信長は、それを固辞。その代わりとして、国内最大の国際貿易都市の「堺」、湖上交通の交易港の「大津」、東海道と東山道の交差点である「草津」の支配権を信長が義昭に求めた話はあまりにも有名であり、信長が如何に経済流通を重要視していたことが分かる話であります。
 
 その信長が琵琶湖の水上交通を重要視していたかを紹介しているのは、前掲の竹村公太郎先生監修の『地形から読み解く日本の歴史』(宝島社文庫)であり、その中で『織田信長が安土を拠点とした理由』(文:治部左近氏)・『安土を囲む琵琶湖水上ネットワーク』(同:本岡勇一氏)の2タイトルで以下のように書かれてありますので、筆者の観点で要点を抜粋し、箇条書きで以下のように挙げさせて頂きます。

 『安土城の真価は、琵琶湖の湖上交通を考えない限り理解することはできない!』

 『それまで居城としていた岐阜城から安土へと居を移したのは、支配する版図の拡大に伴い、安土が中心的な位置にあったこと、かつ交通の要衝であったことがあげられる。畿内・東海に通じる東山道、北陸に通じる北国街道、伊勢へと通じる八風街道などが交差していたのである。(中略)信長は、近江を中心にして「陸のネットワーク」を押さえていたのである。しかし、信長の発想は、それだけに留まらなかった。少し視点を広げて近江全体をとらえて見てみるともう一つのネットワークが見えてくることになるのだ。』

 『湖畔の壮大な天守は家臣の居城に水路でつながっていた』

 『例えば羽柴秀吉に与えた長浜城、明智光秀の坂本城、そして信長の甥である織田(津田)信澄の大溝城など家臣の居城を俯瞰して共通点に着目してみると面白い。』
 『いずれも平城であり、それぞれが交通の要衝にある。さらにはそれぞれの城が琵琶湖を背後にした構造をとっていること、そしていずれも城内に港を擁していたのである。それはつまり自由に琵琶湖内を船で行き来できるということであり、完全に信長勢力が琵琶湖の制海権を手中にしていたということであった。(中略)これこそが信長が築き上げた「湖水上ネットワーク」なのであった。』

 (以上、「第1章 織田信長・豊臣秀吉 天下人の都市計画」文中より)

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 長々と抜粋させて頂きましたが、最初に本文を読んで考えてみると、成程!と筆者は感嘆しました。先述のように、父祖の代から水上交通の要衝を掌握していた信長からすれば、水上交通とその拠点となる港の重要性は極めて常識的な事であり、古くから日本海(海上航路の大動脈)と畿内を結ぶ琵琶湖という水上を治めるには、湖南(安土)・湖西(坂本)・湖東(長浜)・湖北(大溝)に城郭と港(あるいは城下町)を築き、湖の四方を取り囲めば、『琵琶湖の制海権』を完全に把握できまることになります。
 信長が琵琶湖を把握した、という意味は、日本海(北陸)から畿内へと流れる物資(特に海鮮物)ルートを抑えたということであり、またその逆ルートである畿内から北陸へ向かう物資(主に鉄砲・弾薬など)も、殆ど管理下に置けるということもあります。
 信長が安土城に本拠移転をした時期(1576年から数年間)は、手取川の戦い(1577年)に代表されるように、越後国(新潟県)の上杉謙信との対立が深まっていた頃であり、安土城に本拠地を構え琵琶湖を抑えることによって、畿内から謙信勢力が割拠する北陸地方へ輸送される物資の流れを遮断することが容易にできたのであります。即ち、「荷留」、現在で言う「経済封鎖」であります。実際、琵琶湖ではありませんが、謙信と対立関係になった信長は、当時日本海交易の重要拠点の1つであり、信長の支配下となっていた越前三国湊(福井県坂井市)に対し、謙信勢力圏の越後・越中(富山県)・能登(石川県能登半島)の船舶の入港を禁止命令を出し、謙信を経済的に追い込むように画策しています。
 信長が近江のほぼ中央にある湖南の安土城を本拠地を置いたことの理由の1つとして、『琵琶湖の水運を把握すること』があったのであります。

 かつて安土城があった現在の滋賀県近江八幡市安土町は、農地が広がる閑静な町でありますが、(これは筆者の想像でありますが)、信長が岐阜から本拠移転してくる以前(六角氏配下の国人衆・目加田氏統治時)は、もっと鄙びた地域であったと思えるのです。何故ならば目加田氏という小さな国人衆では大きな町を造営するほどの権力や経済力が無かったからであります。 そこで、天下の覇者となった信長が、安土(目加田)の地に突如現れ、巨大城郭と大規模な城下町を築いて、京都・堺・奈良という既存の経済都市とは別の場所で、畿内に新しい経済圏が誕生したのであります。
 信長は、安土城へ本拠移転すると共に、馬廻衆や小姓といった直属家臣団(即ち常備軍)も安土城下に集住を命じていますが、当時、信長麾下の地方大名まで昇進していた前田利家や羽柴秀吉も安土山麓に屋敷を構えています。また各地から商工業者も城下町に集めるために、岐阜で実施していた楽市楽座を敷き、人口増加・商業の発展に力を注いています。
 
 京都・奈良や堺のように、古代より大きな既得権=経済基盤を所有していた勢力(「寺社」や「有徳人=豪商」)が強い場所は避け、それまで開発が進んでいない鄙びた地を選定して、核心部(司馬先生が仰る所の)モニュメントとなる「城郭(安土城)」、そして、様々な物資と商品を生産・運搬に携わる商工業者、その消費者役目を担う自身の家臣団の受皿となる「城下町」を造営していくのが、デベロッパー・織田信長という天才であります。
 筆者が好きな番組の1つに『林修の今でしょ!講座』(テレビ朝日系列 毎週火曜放送)がありますが、2016年の年末に特別企画として「大河ドラマにしたい本当にすごい武将 三番勝負」が放送され、同番組のレギュラーの林修先生が、東京大学史料編纂所教授にして「林修の宿命ライバル(と番組内で位置づけされている)」であられる本郷和人先生と、誰を大河ドラマの主人公したいかというプレゼン対決をされていました。
 林先生は、天才経営者としての織田信長を推薦候補の1人に挙げて、例によって信長の本拠移転政策ことについても熱弁を振るっておられ、『(信長は)城下町をつくって、新たな商人を取り込む。つまり城下町に商人を集めて納税させるためであった』を仰ると、対戦相手の本郷先生も応じて以下のことを仰っておられます。

 『やはり信長は、デベロッパーとしての才能があって、どんどんと自分の城を造ることによって、「土地の価値を上げて」ゆくんですね。』

 上記の本郷先生のご意見をお聞きになった林先生も『お見事!』と感嘆して応じられておられました。この信長の土地開発方針は、後進の豊臣秀吉、徳川家康という天下人、他にも伊達政宗・黒田孝高(官兵衛)など優れた大名たちにも連綿と受け継がれ、その結果、大阪・東京という世界有数の巨大都市は勿論、仙台・福岡という日本を代表する地方都市の発展に繋がっているのであります。

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 信長の凄さというのは多々ありまして、兵農分離を行い機動力優れた常備軍の編成、鉄砲の大量導入などなど、軍事面についてもありますが、やはり、その元手となる『財力=経済の力』を産む能力が傑出していたことであります。それが人・物資の流れを潤滑にするための関所撤廃、座を廃して商工業を活発にする楽市楽座、そして、複数回に渡って本拠地を移転することにより、城下町を築くことにより、土地開発を行ってゆくデベロッパーとしての経済流通、開発者としての能力であります。
 この度は、信長のデベロッパーとしての側面を、前回の「尾張編」、今回の「岐阜・安土」の2回に分けて、長々と記述させて頂いた次第でございます。

(寄稿)鶏肋太郎

織田信長の本拠移転から見る「デベロッパー」(土地開発者)という側面(尾張編)
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織田信長の本拠移転から見る「デベロッパー」(土地開発者)という側面(尾張編)

本能寺

 以前の記事で、武田信玄・上杉謙信・毛利元就など稀代の戦国大名が、代々続く「本拠地移転=居城(各勢力の政治経済・軍事における中心地)」を移転しなかった組織的や経済的などの理由について、筆者の雑感で書き連ねさせて頂き終わってしまいましたが、今回こそ数多な戦国武将(複数の本拠移転をやらない群衆)の中で唯一例外として挙げられる、皆様よくご存知の英傑・織田信長(1534~1582)が、複数回に渡り本拠移転を敢行したことについて書き連ねたいと思います。
 
 信長が尾張守護代・織田氏の庶流である織田弾正忠家の嫡男として、年少(幼名:吉法師)にも関わらず那古野城城主の身上から戦国の世を出発し、その後、政治情勢などに応じて清洲城・小牧山城・岐阜城、そして安土城、(実現はしなかったですが「大坂城移転」構想もあり)へと複数回に渡り、全国規模で本拠移転を敢行していったことはあまりにも有名でありますが、その信長の本拠移転構想の指針を教授したのは信長の父であり、尾張国内という極めて限定的な本拠移転を繰り返した織田信秀(1511~1551)であったことは、以前の別記事に紹介させて頂いた通りでございます。
 信秀および10代の惣領息子である信長が活動していた頃の織田家(弾正忠家)は、飽くまでも織田氏の分家(清州三奉行の一員)であり、領国と城地=農業生産高も尾張国(愛知県西部)の一部を支配下に置く身上に過ぎませんでしたが、その限定的な領国の中で、経済流通の要衝である「津島」と「熱田」があり、信秀がその両方を把握し、そこから上がって来る莫大な海運収益、いわゆる『商業流通の力』を手に入れることにより、信秀は積極的な軍事行動を採ることができ、一時期には、斎藤道三(利政)が治める美濃国(岐阜県南部)の西部の一部、三河国(愛知県東部)の安祥(安城)まで支配領域を拡げることに成功。主家である清洲織田氏(大和守家)を凌ぐほどの勢力を信秀は築き上げており、後年「尾張の虎」と称せられるほどの名将とされています。
 信秀が軍事行動(外征)で力を発揮したことは以上の通りですが、決して猪突猛進の武力一辺倒の武将ではなく、寧ろ先述のように津島・熱田の経済的重要性を深く理解し、その把握に努める経世にも明るい人物であり、刻々と変化する情勢に柔軟に対応する合理的思考および発想法を持つ優れていた人物でもありました。その好例が本拠移転であります。

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 信秀は、父・信定(これも経済感覚に優れた陰の大物です)が津島を抑えるために築かれた「勝幡城」(1526年頃)を初本拠とし、次いで尾張国内の中央政府というべき清洲城に近い尾張今川氏(駿河今川氏の一族)の「那古野城」(1538年)を謀略で奪取、こを本拠として尾張中央部の愛知郡を制圧。今度は熱田の支配権を固めるために「古渡城」(1539年)に本拠を遷し、最後は当時東海地方最大の戦国大名・今川義元に迅速に対抗するべく「末森城」(1548年)を築城、本拠として、同地で1551年、42歳で生涯を終えています。
 信秀の他の業績の詳細については、「信長および織田氏研究の泰斗」でいらっしゃる歴史家・谷口克広先生の名著『天下人の父親・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか』(祥伝社新書)がございますが、信秀は勝幡城から始まり、終わりの末森城を含め4回も本拠移転をしており、何れも無闇に移転をくりかえしたのではなく、『戦略的(特に経済拠点の把握)』に沿って合理的に行っていたのであります。

 先述のように信秀の跡を継いだ信長は、父の政策を模倣しつつも、信秀以上に大々的かつ本格的に実施していきました。1544年に信長(当時弱冠10歳)は、信秀から那古野城を譲られたと言われ、その少年城主となったことで戦国武将としての本格的キャリアをスタートさせています。そして1555年に、主筋の清洲織田氏(大和守家、下四郡守護代)を滅ぼし、その本城である清洲城を奪取して居城とするまでの11年間、那古野城を本拠としています。唯、当時の那古野城は砦程度の小さな城郭である上、周囲は湿地帯も多くあるので大規模な城下町を形成するには困難な土地柄であったと言われています。
 因みに、信長の元祖・一代記である『信長公記』に、青年の信長が短袴で荒縄を腰に巻くという衣装で城下を練り歩き、奇行乱行を繰り返し「大うつけ者」と周囲から蔑視されていたことが書かれていますが、これは信長が那古野城主の頃であります。しかし、一方でこの時期に、後に信長の重臣となる丹羽長秀・池田恒興・前田利家・佐々成政など有能な若武者(有力土豪の部屋住み)たちを側近(小姓=職業軍人の先駆け)として召し抱え、人材登用も積極的に行っていたこともまた事実であります。
 
 信長が清洲城を奪取、同城に大改修を加え、新たな本拠地したのが、先述の通り1555年であります。清洲城は、1405年に尾張守護大名であった斯波氏によって築城されたのが始まりであり、1478年に尾張守護の中心地となった以降、尾張国内(特に下四郡)の正真正銘の本拠地として重きを成すようになりました。
 江戸期以降は、天下人・徳川家康の命令により、1610年からの3年間で、尾張藩(徳川御三家)の本拠が名古屋城(旧:那古野城)に移転してしまったので、尾張国の中心地としての清洲城とその城下町の役目は終わり、現在でも名古屋市が愛知県の中心地となっていますが、信長在世当時の清洲城は、現在でいうところの県庁所在地のような存在であり、尾張国内の政治・経済・交通(丁度、地理的にも尾張国内のほぼ中心地)の核心であり、信長が一支城に過ぎない小規模の那古野城を出て、清洲城を本拠地にすることによって尾張の政治・経済を抑えると共に、戦国大名(正しく下剋上の成功例の1つ)として自立したことを内外に喧伝したのであります。
 信長が清洲城を本拠地としたのは、約8年間(1555~1563)でしたが、この期間で信長は、長年織田氏の強敵であった駿河の今川義元を桶狭間の戦い(1560年)で討ち取り、天下にその勇名を轟かせ尾張国の支配権を確固たるものにし、また1562年には今川氏から自立した三河の新興戦国大名・徳川家康(当時は松平元康)と清洲城で軍事同盟、いわゆる清洲同盟を結び、東方を固めることにも成功。信長は父・信秀の宿願であった美濃制圧に着手するようになります。そこで、翌年の1563年、信長は本拠地を清洲城より尾張北東に位置する小牧山の地に城を築き、本拠地と定めました。これが小牧山城であります。
 因みに、本能寺の変(1582年)で信長と当時既に織田氏の家督を継いでいた織田信忠が横死した後に、秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の重臣たちで織田氏の行末(即ち、天下人の座)を決めるための談合「清須会議」が清洲城にて催され、その結果、秀吉が天下人への座へ大きく前進したことを決定付けたことは周知の通りであり、清洲城はその後の日本の行末を決めた大舞台になったのであります。
 そして、清洲城以外にも、かつて信長の本拠地が歴史の大転換点(日本建築史の変換点、そして1584年の小牧長久手の戦いの舞台)となったこと強いて挙げるとすれば、それが以下から記述させて頂く小牧山城であります。

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 信長の積極的な本拠移転は父・信秀に倣ったものであったことは何度も記述させて頂いておりますが、信長の本拠移転が信秀よりも本格的かつ精巧であった点を1つ挙げるとすれば、信長は当時、未だ誰も見向きもしなかった地に、大規模な城郭を築き、しかも本格的な町割(城下町形成=経済活性化)も行って本拠地としたことでしょう。つまり現代でいうところの『デベロッパー(土地開発者)』という他の戦国大名よりが持っていなかった『並外れた能力』を信長は発揮したということであり、そのが、信長が戦国大名になって初めて築いた小牧山城への本拠移転とその城下町造りであります。
 因みに信秀は在世当時、信長のように未開の小牧山への本拠移転を行い、大々的に一から城郭と城下町を造るということは、(信秀の大名としての権威が整っていなかったのが原因と思われますが)、行っておらず、飽くまでも既存の経済拠点(熱田)を抑えるという目的で本拠移転を行うという規模に留まっております。
 
 筆者の好きな著書の1つに竹村公太郎先生と歴史地形研究会の皆様が監修・執筆された『日本史の謎は地理で解ける』(宝島文庫)というのがありまして、その第1章に「織田信長・豊臣秀吉 天下人の都市計画」(本章著者:治部左近氏)と銘打って、冒頭から信長の小牧山城への本拠移転について詳細に記述されています。
 その本文を引用させて頂き筆者なりに要約させて頂くと、信長はそれまで軍事面として使われなかった城郭を『見せる城=政治的アピール(筆者注:一種のランドマーク)』として利用することに着目し、その好例なのが、信長城郭の集大成である安土城とその城下町であることは有名ですが、そのプロトタイプ(原型)が、信長が美濃攻略を果たすための本拠地となった小牧山城とその城下町であります。
 先述の『見せる城=政治的アピール』とはどういう意味か?それは人々が目を見張るような「斬新な城郭」と、それに連なる城下町を造り、経済力と権力の強さを見せつけるということであります。後年の安土城が豪華絢爛の高層天主閣と横5mを越える幅広い大手道、その両端には「武家屋敷(羽柴秀吉や前田利家の屋敷)」と「総石垣」で大城郭が構成されていた事は、宣教師たちの証言や城跡を見れば明確なことですが、小牧山城も近年の発掘調査で、山の南側に横幅5mを越える大手道、そして総石垣で完成された大城郭であったことが判っています。
 因みにそれまで日本国内の殆どの城郭は、飽くまでも土塁などで造られた城砦、つまり土造りの城が主流であり、最初に総石垣で造られた城郭は小牧山城であると言われおり、その城郭建築を指示したデベロッパー・織田信長は、日本建築史に大きな足跡、即ち『近世城郭の先駆者』という栄誉を遺したのであります。
 兎も角も、当時では斬新であった総石垣の城郭を築くことによって、信長は内外に対して織田氏(経済力)の強さを政治的にアピールしたのであります。
 信長が、濃尾平野にある独陸丘陵・標高86mの小牧山に大規模な城郭を築くまで、その山と周辺の平地(濃尾平野の一端)の詳細な先史は不明でありますが、かつて山中には龍音寺(1492年建立の浄土宗の寺院、通称:間々観音)が鎮座していたことは確かであり、信長がこの龍音寺を移転させ、小牧山に石垣で四方を囲まれた城を築いた上、山麓南側に、長方形街区と短冊形地割(いずれも後の城下町の基本となる型)で区画された、大規模な城下町を設計しています。
 山麓北側および同東側および城下町の東側中心に「新町」・「小牧池田」などの武家町を造り、重臣や馬廻(小姓)衆など織田軍の主力兵力を集住させ、織田軍の強みの一つである「即断の軍事行動」を採れるようにし、城下町西側には、上御園町を区画、現在の地名でも紺屋町・鍛冶屋町として遺っているように、清洲から来た商工業者が主に集住していたと言われています。現在の小牧市の礎は、信長が小牧山に本拠地を移転した時に造られということになります。
 「常備兵」(軍事)とそれを養うための財力を産む「商工業」(経済)という2つの要素をセットにして一から大きな城下町を造るというのは、如何にも重商主義であった信長らしいですが、石垣造りの小牧山城と大きな城下町を本拠地として、信長は美濃斎藤氏やその麾下の国人衆に尾張織田氏の威容と経済力を見せつけ、斎藤方の有力国人であった鵜沼城の大沢基康など東濃の国人衆を調略投降させてゆき、美濃攻略に邁進していったのであります。そして、小牧山城を本拠地として4年後の1567年に、斎藤氏の牙城であった稲葉山城とその城下町・井ノ口の攻略に成功。遂に念願の美濃国制圧を果たしたのであります。
 攻略した稲葉山城を『岐阜城』と改め、次の本拠地として決定した信長はあっさりと小牧山城を廃城とし、それに伴って小牧の城下町も縮小されました。土地に何ら未練を見せる気配のなく、機敏に本拠地を移してゆくという並外れた行動力も信長らしい戦略姿勢であります。小牧山城を本拠地とした期間は1563~1567の4年間でありました。

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 信長が尾張の州都であった清洲を棄て、片田舎の小牧山へ本拠地を移転させる際に、以下の有名な逸話があります。皆様もよくご存知だと思います。
 信長の家臣たちは、清洲城から小牧山へ移転に難色を示すことを分かっていた信長は、最初小牧山より更に北にある丹羽郡二ノ宮山(愛知県犬山市)へ城を築き、そこを本拠地へ移転させることを家中に命令しました。当然、家臣団からは二ノ宮山への移転には反対者が続出、それを待っていましたと言わんばかりに、信長は「ならば清洲に近い小牧山を本拠とする」と尤もらしい折衷案?を出して、家臣団の不満を見事に抑えて、小牧山へ移転が円滑に決まった、というものであります。何とも感心するほどの手回しの良さ(悪く言えば老獪さ)でございます、信長公。
 上記の信長の巧みな人心操縦術の逸話の真偽はわかりかねますが、織田氏を含め他の戦国大名家の家臣団(国人衆=武装農場主たち)は自分の土地や屋敷を切り離され、他所へ遷る(城下町への集住)のを本来厭うものであり、ましてや労力や財力を費やす本拠移転は嬉しくないものだったのです。
 もし、先述の信長が家臣団の気分を小牧山城移転へ向けさせた逸話が本当であれば、信長という天才は、普段、田畑を有し農作業に勤しむ家臣団=国人衆(農兵の親玉)たちを抱える脆さ、即ち田植えや稲刈りなどの「農繫期には軍事行動が出来ない」ということを熟知しており、信長自身とその家臣団ごと全部を本拠地移転させることによって、家臣達から農業を切り離し、全員を悉く城下町へ集住させることによって、随時行軍可能である機動力優れた『常備兵』を編成していったのです。
 これが有名な信長政策の1つであり歴史の教科書にも掲載されている「兵農分離」であります。経済評論家の上念司先生は、信長の兵農分離は不徹底なものであったと評されておられますが、何れにしても信長は小牧山城への本拠移転で、それまであまり注目されなかったであろう小牧の地に石垣の城と大きな城下町を築き、デベロッパーとして土地価値を上げる経済政策を兼ねている一方、大農場主で農兵の親玉でもあった家臣団を農地から切り離し、城の麓にある武家町に住まわせて「常備兵」とする軍団編成、有名な「兵農分離」(軍事改革)も兼ねていたのであります。
 兵農分離を実施し、普段から城下町に多くの家臣や足軽を常備兵として住まわせおくと、必然的に莫大な費用(人件費)が必要となってきますが、先祖代々経済の要地を制し、商工業および流通業の力と重要性を熟知している信長は、その問題も解決しております。それが有名な自由商業の魁である『楽市楽座』であり、それを公式的に行ったのが小牧山城の次の本拠地、岐阜城であります。

 しつこくも更に小牧山城についての余談を紹介させて頂くと、先述のように、1567年に信長が岐阜城へ本拠移転した後は小牧山城は廃城となりましたが、その17年後の1584年、信長亡き後に天下の覇権を確立した羽柴秀吉と、東海・甲信5ヶ国を有する有力大名・徳川家康が干戈を交えた「小牧長久手の戦い」の折、旧小牧山城は家康の本陣となり、大軍の羽柴軍と対峙。更には家康の根拠地である三河を急襲するべく編成された羽柴軍別動隊(大将:羽柴秀次)を、家康は小牧山本陣から出撃して長久手の戦いで別動隊を撃破、羽柴方の池田恒興・池田元助父子、森長可など信長以来の猛将を討ち取るほどの大勝利を治めています。
 局地戦とは言え、秀吉より明らかに兵力が劣る家康が、秀吉の大軍を長久手の戦いで撃破したことは、家康の長い戦歴の中で、栄えある戦功の1つとなり、後に天下の諸将から「家康は強い(野戦上手)」という信用を得て、天下人・徳川家康の覇権を確立できた大きな転換点になった戦いでした。
 江戸期幕末の大学者・頼山陽の名著「日本外史」の中で、「公 (家康) の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして、小牧にあり」という有名な一文があることは有名であり、家康にとって小牧長久手の戦いでの勝利はそれほど後世の歴史に大きな影響を持っていたのであります。

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 思い返してみますと、豊臣秀吉・徳川家康という2英傑は、天才・織田信長が創り上げた基盤を受け継ぎ、信長の驥尾に付す形で、各々天下の覇権を確立しましたが、秀吉は清洲城を舞台にして行われた「清須会議」で、譜代宿老の柴田勝家を退けて織田政権の後釜に座って豊臣政権の礎を築き、対して家康は小牧山城に拠って、長久手の戦いで秀吉の大軍を撃破することによって天下人への勇躍へ繋がってゆくことなります。即ち秀吉・家康の両英雄もかつて、信長が本拠地とした『清洲城』と『小牧山城』を礎にすることによって天下の覇権を確立したということが言えるのであります。
 信長の本拠移転政策は、先述のように、後の城郭建築史と都市(城下町)計画という分野別の歴史にも大きな影響を与えたことも確かでございますが、上記の秀吉・家康の飛翔の場所を提供することになり、その後の日本の行方も決定付けたことに寄与していたのであります。
 
 今回は、信長の本拠移転については、那古野・清洲・小牧山の尾張国内のみの記述になりましたが、次回は岐阜城・安土城への本拠移転について紹介させて頂きたいと思います。

 
(寄稿)鶏肋太郎

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本能寺ってそもそもどんなお寺?宗派は? 織田信長の最期の地

本能寺

本能寺の概要

本能寺の変の舞台となってしまったこの寺院ですが、そもそもどんなお寺なのでしょうか?
本能寺(ほんのうじ)は京都市中京区下本能寺前町にあり、宗派は法華経です。
1415年(応永22年)に本門流の大本山、妙顕寺の僧の日隆が油小路高辻と五条坊門の間に本能寺を建立したのが始まりです。
本能寺は度々火災に見舞われ、洛中を移動しました。
しかし、室町時代後期の頃には本能寺は町衆信徒を中心として勢力を伸ばしていったのです。
安土桃山時代には鉄砲や火薬の仲介に動いたりとしていました。
その背景には瀬戸内の港市から屋久島まで教線を延ばした事にあります。
その頃には織田信長の洛中宿館として本能寺が使用されていました。

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法華宗とは?

法華宗とは法華経の教えを信奉してその教えに従った行動をする宗派の事です。
「法華経」の教理の中心の考えは二乗作物・声聞・縁覚の二乗も菩薩と同様に仏の悟りを開く事ができるという事と、久遠の昔に真実の悟りを成就して仏となった事と教えられています。
中世日本では鎌倉時代の日蓮を開祖とする日蓮宗が代表的で、その流れは現代にも通じています。
現在では創価学会・立正佼成会が中心として信仰されています。

本能寺の変

1582年(天正10年)に起きた本能寺の変はご存知だと思います。
かの有名な戦国武将である織田信長が家臣の明智光秀の謀反に逢い、志半ばで自刃を遂げた事件です。
この時織田信長は備中高松城攻めを家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じていました。
そして、事件当事者である明智光秀には羽柴秀吉の応援を命じていました。
織田信長自身は森欄丸をはじめとする数名の家臣を率いて本能寺を宿館として滞在していました。
織田信長の嫡男である織田信忠は近隣にある妙覚寺を宿舎としました。
本能寺の変の前日に織田信長は公家や町衆らと余暇を楽しんでおり、まさか明智光秀が謀反を企てているなど夢にも思っていなかったのではないでしょうか。
高松城攻めの戦に勝利を確信していた織田信長に向けて明智光秀は1万余りの兵を率いて6月2日早朝4時半頃に奇襲を仕掛けました。
織田信長の警護は森欄丸をはじめとするわずかな小姓など数十人程度でしたので多勢に無勢。
流石の織田信長もあっけなくこの世を去りました。
ただ、遺体は見付からなかったと伝えられています。

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本能寺のその後

本能寺の後日談として、後に豊臣秀吉の命により本能寺は現在の場所に移りました。
寺町が形成され、寺内には織田信孝建立の織田信長主従の墓が移されて現在に至ります。

(寄稿)土佐武士の子孫

本能寺とは 京都・本能寺の歴史 織田信長との本当の関係

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